空襲被害に遭っていた土地から、続々と救援が到着
その後、各地から「全国の鉄道仲間・路面電車仲間」が駆け付けた。
8月18日には、同じ県内の呉市交通局・尾道鉄道、11月には高松琴平電気鉄道・琴平参宮電鉄(香川県)、伊予鉄道(愛媛県)などが応援に来ている。ほかにも土佐電気鉄道(高知県)や鉄道局下関電力区(現在のJR西日本・下関地域鉄道部の一部)などが、架線係全員の落命でピンチに陥った広島電鉄のために、貴重な技術畑の人材を広島入りさせて、支えてくれたのだ。
当時に広島入りした土佐電気鉄道の方は、後年にインタビューで「上司から『広島を助けてやれ、行ってやれ』と言われた」「『会社が違うても同じ路面を走りゆうがやき』いうて行きました」(土佐弁で「会社が違っても、同じ路面電車を扱う会社なので、行きました」の意)と語っているが、高知も同年に大空襲で甚大な被害を受けている。他の地域も、広島同様に空襲など戦災を体験し、人を助けるどころの話ではなかったはずだ。
広島電鉄の復旧に尽力した、松浦課長の手記をまとめた中田さんは「同じ路面電車だから、ただそれだけの理由で協力してくれたのではないか」と話す。確かに、これ以上の理由の詮索は必要ないだろう。
“名もなき人々”の存在も大きかった
各地の同業者以外に、中田さんが書籍の執筆に当たって調査していて「最も印象深かった」と振り返るのが「平沼組」なるチームだ。
松浦氏の手記によると、平沼組は電気工事に当たっていた軍の支援部隊が復員で引き揚げることになり、同じく工事に当たっていた満長組に増員を依頼し、派遣された。1945年8月23日から10月末まで、車庫内の電車に寝泊まりして復旧作業に従事したとされる。
平沼組は、在日朝鮮人で構成されていたとみられるが、メンバーの名前など、詳しい情報は分かっていない。当時、在日朝鮮人は差別的な扱いを受けることも多かったとされるが、松浦氏の手記によると会社を挙げて丁重に扱われていた。物資不足の中、平沼組が帰国するタイミングではスルメやみかん、そして酒などを振る舞った送別会も開くほど愛されていたという。
1945年11月ごろ、平沼組は母国へ戻ったとみられる。その後の消息や、どんなメンバーだったのかをつかもうと、中田さんは各種団体に問い合わせたものの分からずじまいだった、と残念そうに語る。
問い合わせる中で、当時の復旧作業には平沼組以外にも、少なくない在日朝鮮人が活躍していたらしきことも分かったと話した。こうした、公的記録などには残らない“名もなき人々”の尽力によって、広島電鉄は奇跡的な復興を見せていった。




