被爆電車は、今も元気に広島の街を走り続けている
広島電鉄の従業員に同業各社、在日朝鮮人などあらゆる人々の尽力もあり、枕崎台風・阿久根台風も乗り越えて広島電鉄は10月11日に本線(広島駅~己斐間)がすべて繋がった。長らく宿直・泊まり勤務を続けていた松浦課長の重荷も下りて、家に帰ってしっかり休めるようになったと手記には喜びが書き記されている。
その後も復旧は着実に進み、1948年末までには、道路の付け替えでルート変更を余儀なくされた白島線を除く全線で運行再開を果たした。原爆の凶禍から生き延びた電車や、かかわった人々の後日譚を、少しだけ追ってみよう。
まず、戦前に年間5000万人以上を運んでいた軌道線(路面電車)は、原爆投下の翌年に2379万人程度まで激減していたが、朝鮮戦争前の1949年には4699万人まで回復。昭和40年代に訪れたクルマ社会の到来による危機を乗り越え、被爆当時とほぼ変わらない路線網を保っている。
被爆した電車のうち、650形(651号・652号)は、いまでも丁寧にメンテナンスされ、広島の街を元気に走っている。広島電鉄によると「メンテナンスなどは現行車両と大きく変わらず、走行に支障はない」そうだが、運転士を経験した中田さんは「歴史を考えると残す意義はもちろんあるが、古い分、加速が遅くて運転しづらい面はある」と笑いながら話す。
被爆電車だけでなく、広島電鉄では旧神戸市電や大阪市電で空襲に遭った車両も走っている。「路面電車の動く博物館」(中田さん)として、被爆時に各社の応援を受けた恩返しをするように、活躍している。
当時の運行に携わった人々のうち、変わったところでは常務だった伊藤信之氏が、野球好きが高じてプロ野球参入の発起人になっており、広島野球倶楽部(現:広島東洋カープ)の初代社長に就任している。電車で街に希望を与えた人物が、数年後には野球で広島に希望を与えているのは非常に面白い。
変わるもの、変わらないもの
被爆から80年となる2025年、広島電鉄に転機が訪れた。被爆しても落橋しなかった荒神橋を経由するルートが全線廃止となり、西側の通りを経由する広島駅への短絡経路「駅前大橋ルート」に切り替わった。路面電車として史上初の「駅ビル2階ターミナル」を擁する新・広島駅停留所に、被爆電車(651号)が進入する姿は話題を呼んだ。
広島電鉄では毎年、8月6日の8時15分に停車できる車両はその場に止まり、走行中の車両は可能な範囲で黙とうをささげている。もちろん、80年目の今年も変わらない。あの日を、そして復旧に従事した人々への感謝を忘れることなく、今日も広島電鉄は、いつもと変わらず走り続けている。
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