上野村西側の三岐に着いたのは8時40分であった。前夜に赤旗埼玉県記者が秩父から上野村に入り、北相木村の取材団に連絡するために電話を借りたという農家があった。堀川さんという名前だった。何の手がかりもないので、電話を借りたお礼と事故対策本部になる上野村役場の場所と距離、取材団が宿泊する民宿を教えてもらうために訪ねた。
年配の御夫婦がおられ、堀川喜三郎さん、みよいさんであった。若奥さんはとみ子さんでご主人は守さん。昨夜から猟友会、消防団員として捜索活動で出かけていた。曹洞宗の檀家総代でもあった喜三郎さんに、役場への道や写真屋さんなどの場所を教えていただいた。昨夜の上野村の動きも教えてもらった。若奥さんには民宿をあたってもらったが、何百人もの報道関係者が押し寄せており、どの民宿も満員であった。
一人や二人は宿泊できる民宿もあったが、分散すれば指揮系統に齟齬が出てくるので困っていた。すると、見かねたみよいさんが「ざこ寝でもよろしければ使ってください。大変な時だから少しでも役立つなら構いません」と言ってくれた。とみ子さんも頷いている。もう、こちらは短期間でも無理をお願いするしかないと思っていたので、平身低頭でお礼を繰り返した。これを機に今日でもお付き合いをいただいている。残念ながら、事故から10年過ぎにみよいさん、喜三郎さんは、ご逝去されている。
「これは大変なことになった」
堀川さん宅でテレビ中継を観ていると、生存者が発見され、ヘリで救助する中継がフジテレビで放映されていた。「これは大変なことになった」と思う。上野村役場には記者になったばかりの赤旗長野県記者を派遣していた。その記者から生存者が自衛隊ヘリで上野村の総合グラウンドに到着する予定だとの電話連絡があった。それで私と写真部記者がグラウンドに向かった。
2時間ほど待っていると、バートルヘリが飛来してきた。次々とヘリから生存者が降ろされる。名前も何も分からないが全員女性のようであった。だが生存者全員がまたヘリに戻され、どこかに向かって飛来していった。生存者に重傷者がいたので2時間も車で輸送できず、ヘリで病院に輸送することになったらしい。
翌日は私が墜落現場をめざす。墜落現場を見ていないと、その後の記者の運用ができない。山の状況やどの程度の時間がかかるのかなどを頭に入れておかないと、記者との齟齬が起きる。長期取材だから今後の企画も考えなければならない。先行記者の話を聞いて、どのルートで登るのかを検討した。まだ登っていない記者は4人いた。翌午前3時に出発し、長野側から登ることにした。
これも大変で、6時間前後はかかる。ぶどう峠を越えて北相木村に入り、南相木村に入って三川から沢伝いに山に入る。地図で山容や地形を調べているし、現場も推測できているので、その方向に向かって登って行く。高校時代に山岳部で、近畿地方の主な山々を登っている。2000m足らずの山容や地形は大台・大峰の山々と似ている。山は深くはないが急坂も多い。前日に報道陣が登っている足跡があり、獣道でありながら迷うこともなく登っていく。じっくりしたペースで登っていく。