なぜ、計画はとん挫したのか?
地下鉄を建設するか検討中の1967年には、「どの区間からどの区間への移動が多いか」など都市間の移動を調査する「パーソントリップ調査」が、本格的なものとしては日本で初めて行われている。その後、再三変わった想定ルートも最終案が決まり、事業化・着工を待つのみ——だったのだが、現実には建設に至らず、膨大な調査は無に帰してしまった。
のちに人口120万人まで増加するほどに急成長を遂げていた広島市で、なぜ地下鉄建設は、実現しなかったのか?
地下鉄の建設に当たっては、830億円という工事費用を巡る議論や、工事期間中に多大な影響が出るであろう「道路開削」の是非など、さまざまな反対意見が噴出していた。しかし、それ以上に根本的な問題点である「国鉄・国からの乗り入れ拒否」でつまずいてしまった。
地下鉄の建設を議論する際にさまざまな要望を取り込んだせいか、地下鉄車両が乗り入れる国鉄路線の改修にも、莫大な費用を必要とした。発案されたものだけで「呉線の複線化」「海田市駅近辺の高架化」「芸備線の電化」など、令和の現在でも実現できていないような事項が、計画書にはこれでもかと盛り込まれている。
国から突っぱねられた「無茶すぎる計画」
そして、中でも問題視されたのが「可部線の改良」だ。この路線はもともと私鉄だったこともあって駅間は短く、線路の規格も当時最新の地下鉄車両が乗り入れるには心もとない。かつ、線路わきにぎっしり住宅が建っているため、複線化はおろかホーム増設・延長すらひと苦労するありさまだ。
この可部線に地下鉄車両を乗り入れさせるため、広島市は「まったくの新道開削・可部線付け替え」という大胆な提案を国に持ち込んだ。可部線の西側、地図で照合すると現在の「イオンモール広島祇園」の西側あたりに南北へ幅広い新道を貫き、中央部に可部線を「de-press」(おそらく「掘割」の意と思われる)で設置するという計画が、資料に記されている。
こうしたプランは、地下鉄の建設費用と別に、500億円の工費と320戸の立ち退きを要した。当時、国鉄の改良工事にかける費用は100億円がせいぜいといったところ。前代未聞の投資を、東京でも大阪でもなく広島に投下するというプランに対して、国からの反応は「国鉄の財政悪化で大蔵省・運輸省が対立しているのに、そんな計画に補助金を出せない」という、取りつく島もないものであった。
ここで広島市が「自分たちで負担してやり抜きます!」とでも言えれば心証が違っただろうが、「地下鉄の工事や国鉄路線の改修・運営を誰が行うか」を明記せず資料を提出してしまい、まったく本気とみなされず、国との信頼関係を失ってしまった節がある。いま見ると「補助金が出ることを前提」にしすぎているきらいがあり、全般的にムシが良すぎるものだった。


