「黒川には二度と戻りたくない」

「あの碑文ができて、戦後世代が親世代の犯したことを事実として正式に認め、書き残し、謝罪をした。これはとても大きな出来事だと思います。共同体が初めてきちんと歴史に向き合い、その非を認めたわけですから」

 松原監督は、佐藤ハルエさんをはじめとする複数の当事者の女性たちに取材し、碑文除幕式の模様も収めた2本のドキュメンタリー映像を作った。2019年に放送された『報道ステーション』(テレビ朝日)内の特集と、『テレメンタリー』「史実を刻む~語り継ぐ“戦争と性暴力”~」(同)が、映画『黒川の女たち』の原型だ。監督はそこからさらに取材を重ね、足かけ6年にわたって当事者の女性たちの声を聞き続けた。

 黒川開拓団幹部の次男で、「乙女の碑」碑文建立に尽力した遺族会会長の藤井宏之さん(1952年生まれ)と交わした会話が忘れがたいと、松原監督は語る。

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「私が藤井宏之さんに『碑文が建って、これで一区切りですね』と言ったら、『いや、まだまだ終わっていないんです』とおっしゃるんです。『当事者の方ひとりひとりに碑文の説明と謝罪をして回っているのですが、なかには黒川には二度と戻りたくないと、今も苦しんでいる方がいるんです』と」

「二度と戻りたくない」と、藤井宏之さんの申し出を拒み続けていた女性は安江玲子さん。彼女と、佐藤ハルエさんの存在が、松原監督を映画製作に駆り立てたのだという。

「お母さん、お母さん、助けてお母さん」

 当時、黒川開拓団の幹部によってソ連兵に差し出されたのは、数えで18歳以上の未婚女性15人。日暮れ時になると団の幹部が呼び出しにやってきて、数人ずつが日替わりで「接待」を強いられた。1人あたり一晩で何人ものソ連兵の相手をさせられたという。そしてこの「呼び出し係」を担当していた団幹部が、藤井宏之さんの父だった。

 顔を伏せた女性が、雑魚寝状態で数人が性暴力を受ける間のことを回想している。1928年生まれ、当時数えで18歳だった彼女は赤裸々に語りはじめた。

「『お母さん、お母さん、助けてお母さん』と小さい声で言うだけ。『我慢しな我慢しな』って(女性どうし)お互いに励ますだけ」

「銃を背負ってやられるので『暴発でもしたら』と怖くて。反抗したら殺される。強姦だと思った」

90代になるまで毎晩のようにフラッシュバックに悩まされたという当事者の女性 ©テレビ朝日

 日本に帰国してからも彼女はトラウマを抱え続け、90代に至るまで苦しみぬいた。声にならない叫びを書き殴りもした。彼女のノートに記された、

「友の悲鳴 今夜も野獣の餌になる」

 という一文が、観る者の胸に迫る。

 映画中盤まで首から下だけが映っていた女性が、終盤で顔と名前を公表する。その女性が安江玲子さんである。取材を始めた当初の彼女の様子について、松原監督はこうふり返る。