「2019年に『顔も実名も出さない』という約束で初めて取材をしたとき、安江玲子さんは家族にも誰にも、満州で受けた性暴力のことを打ち明けていませんでした。言えなかったんですね。ずっとフラッシュバックに悩まされて、孤独で鬱々とした日々を過ごされていて、取材中もすごくピリピリしていました。ところが2023年10月に、長年面会を拒んでいた遺族会会長の藤井宏之さんに、玲子さんから『会ってもいい』と連絡があったんです」

 藤井宏之さんに同行して安江玲子さんのもとを訪ねた松原監督は、彼女の変化に驚いたという。

「以前の取材では硬い表情で一切笑うことのなかった玲子さんが、人が違ったように柔らかくなっていたんです。よく笑うし、喋るし、冗談も言う。きっかけは、お孫さんからもらった葉書でした。あるとき彼女が満州でのことを打ち明けたところ、家族は受け入れてくれたといいます。

ADVERTISEMENT

 玲子さんが嬉しそうに見せてくれたお孫さんの葉書には、祖母が辛い過去を打ち明けた勇気を讃え、生きて日本に帰ってきてくれたことへの感謝が綴られていました。『ああ、こういうことだったのか』と思いました。話せる人がいて、いちばん近くにいる人が理解してくれて、尊重してくれる。そこで初めてトラウマから解放されるのだと。安江玲子さんが人間性と尊厳を取り戻した瞬間を目の当たりにして、『これをなんとか形にしたい』と思いました」

黒川開拓団の団員たち。1941年から1945年までの間に岐阜県黒川村から約650人の村民が満州に入植した ©テレビ朝日

「いっぺんは死にました。梅毒にも遭いましたしチフスにも遭いました」

 敗戦後、近隣の他の開拓団が次々と集団自決をするなか、黒川開拓団の幹部から「性接待」を行なうことを請われて断ることのできなかった女性たち。そのときの様子を、佐藤ハルエさんはこうふり返る。

「ソ連兵が『女性を出せ』と。団長に集められ『(夫が兵隊に出ている)奥さんには頼めん。あんたら娘だけ犠牲になってくれ』と言われた」

「怖いし、言葉もわからない。めちゃくちゃでした。私は昔のことだって忘れません。いっぺんは死にました。梅毒にも遭いましたしチフスにも遭いましたし、本当にダメかなと思いました」

旧満州、黒川開拓団入植地内にあった「接待所」跡地 ©テレビ朝日

 当時数えで17歳だった鈴木ひさ子さんは、「接待役」として差し出された女性たちの性病罹患や妊娠を防ぐために、医務室で洗浄係を担当していた。彼女はこう証言する。

「(「接待役」の女性たちに対して)うがい薬をホースで、子宮まで突っ込む。冷たい水で洗浄して、私も泣くし、洗浄を受ける人も泣く。地獄とはこのことかと」

 女性たちがまるで「物」として扱われた「接待」は2カ月あまり続いた。狭い避難所の、親やきょうだいにも聞こえる場所で、彼女たちは性暴力に遭い続けた。彼女たちのおかげで生きながらえた黒川開拓団の451名が、その後日本に帰国している。

 しかし、命からがら日本に引き揚げてきた女性たちを待ち受けていたのは、受ける道理のない誹謗中傷だった。

次の記事に続く 「雑誌を遺族会が全部回収して、焼いた」満州での“性接待”被害が明らかになるまでの「空白の73年間」 被害女性たちが声を上げられなかった“不都合な真実”とは

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。