◆この世には「名づけ得ぬもの」がある
一穂 私、名づけられない関係とか感情って、そもそも川上さんの小説で知ったんです。最初に拝読したのが『いとしい』で、それがたぶん二十歳そこそこの頃で。あの作品に出てくる紅郎が衝撃的だったんです。とらえどころがないのに、不思議と目が離せない。
その後、短篇集『神様』を読んで。九つある短篇の一つ「神様」と、それと呼応する「草上の昼食」という作品に〈くま〉が出てきますが、視点人物である〈わたし〉と雄の〈くま〉の関係がすごくいいんですよね。三つ隣の部屋に越してきた〈くま〉と〈わたし〉は交流を重ねて、でも、ある時、〈くま〉から故郷に帰ることを告げられる。人間社会に「馴染み切れなかった」と彼はいう。すごく寂しいんですけど、スッと〈くま〉が離れていくその流れが私は大好きで。別々の生き物だから、ずっと一緒にいるわけにはいかない。そのひやっとする感じこそが、好きなんです。それって、こういう関係だから一緒にいるとか、この二人はこういう了解のもとで一緒にいるはずだっていう前提が裏切られる瞬間でもあるんですが、でも、川上さんの小説に出てくる人たちって、「そういう生き物だから」という説得力がすごい。
川上 そうそう、そういう生き物なの(笑)。みんな、その人にとっての自然な行いをしているだけ。一穂さんにとって自然なことって何でしょう。私はね、一日小説を書かないでいると、すごく自分がダメなものに思えてくるんですよ。小説を書いて、ようやく人間の形を保てている感じ。一穂さんは、会社にもお勤めなんですよね。会社員の自分はどうですか?
一穂 会社では、ほとんどの人は私が小説を書いていることを知りません。そこでは、私の本が売れても売れなくても、賞を取っても取らなくても、まったく関係なく毎日が過ぎていくので、会社という場所はむしろ安心しますね。あまり精神的に強いほうではないからこそ、小説と別の世界を持っているほうが、精神衛生が保たれる感じがするというか……。
私、どう考えても会社員のほうに向いていて。「小説家という職業がこの世にあってよかったね」と言われるくらい、小説を書くこと以外なにもできない作家に憧れているんですけど、サラリーマン歴が長いこともあって、無駄に事務能力が高いので、絶対そんなふうには言ってもらえません。
川上 事務能力、実は私もけっこうあります(笑)。さっき言ったみたいに、小説の執筆って毎日お椀の船で海に出ていくようなうろんで不安定なものだから、日常生活でてきぱき何かをこなす時間があるとバランスがとれるんですよね。
一穂さんは、ご自分が書く登場人物で、ご自身と近しいキャラクターはいますか?
一穂 どの人に対しても分かるところもあれば、分からないところもありますね。
書いている時は、遠い親戚が頭の中に一緒に住んでいるみたいな感覚なんです。しかも、あまり仲良くない親戚。その人がいるために、ほかの人が入って来られないので、早く出て行ってほしいんですけど、あまり仲良くないから言えない(笑)。それで書いているうちに「この人そんなこと言うのか」と意外に思う、みたいな。
川上 書きにくい人っていましたか? 「書きにくいから書かなかった」でもいいけど。私はね、素敵な男の人が書けないの。自分の小説を、自分が読者になって読んでみると「モテる」という設定の男なのに、私からは全然素敵に思えない。『ニシノユキヒコの恋と冒険』のニシノユキヒコとか、『三度目の恋』のナーちゃんとかは、実はいちばん嫌いなタイプ。でも映画化されて、ニシノユキヒコを竹野内豊さんが演じているのを見たら「わあ、素敵」と思いました。ビジュアルは大きいですね(笑)。
一穂 そういう意味では、私は、お母さんとか、いわゆる「普通の主婦」と呼ばれる人が書きにくいですね。男の人を書く時は男の人生を知らなくても、そこはもう思い切って書けるんですけど、女の人を書く時はどうしても後ろめたいというか、引け目みたいなのを感じてしまうみたいです。
川上 結珠のお母さんも、書くのが難しかったんじゃないですか? 虐待しているわけじゃないけど、確かに子どもを傷つけているという、そのバランスが。
一穂 はい。実際に殴ったり怒鳴ったりはしない、でも……という母親の怖さを書こうと思ったんですけど、一歩間違えると、コンビニに売っている実録マンガのお母さんみたいになってしまいそうで。
結局、家族にどうでもいい存在として扱われ続けていると、子どもの心はこんなにもすり減るんだというところが書きたいと思って、ああいう形に行き着きました。
川上 そうなんだ。あのお母さんに関しては、こういう書き方があるんだって感心しました。それにね、彼女は彼女でけっこうストイック。普通は自分にとって不都合な記憶はどんどん書き換えていっちゃうのに、それをしないで、自分のやってきたことを全部認めてる。まわりの人にとっては迷惑な人だけどね(笑)。
『光のとこにいてね』は、前作と比べても圧倒的に長い時間を書いていますよね。今回は、時間が流れるなかでの二人の変化の度合いが大きいので、そういう意味で私は、一穂さんがこの作品でまた違うところに踏み出したのかなと思いました。
一穂 大枠は曖昧でも、ディテールを一つポンって出しておくと通じる場合もありますよね。綿矢りささんの『勝手にふるえてろ』を拝読したときに、経理課で働くヒロインの制服に付箋がくっついていたことで同僚の男の子にとって目が離せない存在になる、というエピソードがやけにリアルで感動したんです。「出版社の経理課を取材したときに、実際に付箋がついている人がいて、印象に残ったから小説のなかでも書いた」というようなことを何かのインタビューで読んで、参考にしています。
川上 ディテール、大事ですね。会社に勤めるとか、子どもを産むとか、大きい枠組みはある程度書けるけど、そのなかにある些細なことや、些事をひらりと切り取れるのが一穂さん。
それと、自分のことを言うと、せいぜい書くとしても自分より10歳くらい上までしか私は書けない。400歳とか1000歳とかはたまに書くんですけど、それはもう誰にもわからないから書くので、たとえば自分が80歳の人のことをその人の気持ちで書くというのは、今の私にはできない。
『光のとこにいてね』をあの年代で終えたのは、そういうことも意識されたのですか?
一穂 そこはあまり意識しなかったですね。二人が歳をとって、おばあちゃんになってから一緒に暮らしましょうみたいな人生を送るのも、それはそれで素敵だなとは思ったんですけど……。
でも年齢の話でいうと、当時30代前半だった自分が書いたBLで、40代半ばの男性をすごい仕事のできる重厚な人として描いていて、後から驚いたことがあります。多分その時の私には、40代半ばはすごい大人で、成熟しているように見えていたんだろうなと。逆にいまは、若い子を見て「大人だな、賢いな」と思うことが多々あります。
川上 それは私も思います。よくできた若い人は本当にそうなんですよね。なんでそんなに大人なの、って。

