宇田川 どんな真実だったのでしょう。

夫人 姉は婚約していた相手から「君はもう処女じゃないんだから、君とは結婚できない」というようなことを言われ、それを悲観して自殺してしまった。監督には「本当のことというのは中に入らなければ分からない」という思いがあったようです。

宇田川 映画のラストシーンが印象的だと聞いています。

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夫人 ええ。東京タワーの見える芝のマンションから、靴を持って朝日へ向かって歩いていく娘の後ろ姿をずっと撮っている。その朝日が、監督には日本の夜明けに見えたと。そして、この子はこれから一体どうやって生きていくんだろうか、という思いがあったと思います。

日本は認めてくれなかったが、台湾が俺を認めてくれた

宇田川 今回復元された『ドラゴン・スーパーマン』(原題:神龍飛侠)ですが、監督が生前の2001年に台湾からレストアすると連絡があったそうですね。

夫人 そうなんです。亡くなったのが2001年の11月15日ですが、その年の8月の頭だったと思います。台湾政府の女性の方から電話がありました。監督に電話を代わると、その女性が優しい声で「永久保存します」と。

小林悟監督 ©2024 Taiwan Film and Audiovisual Institute.All rights reserved.

宇田川 台湾で撮影された映画を、国として永久保存するという報せだったのですね。

夫人 はい。台湾で映画を撮った日本人の監督は3人いて、うち2人はもう亡くなっている。なので、小林監督の映画を国で永久保存します、と。監督はもう末期でガリガリに痩せていたのですが、その電話を受けて「日本は俺を認めなかったけど台湾は俺を認めてくれた」と、すごく嬉しそうでした。

©OAFF EXPO2025-OAFF2026

宇田川 チュウさんは当時、まだ今のお仕事ではなかったそうですが、この修復の話はご存じだったのですね。

アーサー・チュウ(以下、チュウ) はい。当時は別の部署におりましたが、同僚から小林監督の作品を修復するという話は聞いており、「それは良かった」と言った覚えがあります。

宇田川 なぜ台湾は、小林監督の作品をこれほど特別に修復しようと考えたのでしょうか。

チュウ 小林監督は、蓄積されてきた様々な撮影の技術などを台湾に持ってきてくださいました。台湾の映画界に新しい技術をもたらしたこと、それが非常に大きな功績だと考えたからです。

©2024 Taiwan Film and Audiovisual Institute.All rights reserved.

宇田川 この映画が映画史的に面白いのは、台湾の黎明期を支えたシャオ・バオフイ監督と、日本ではメインストリームとは違う流れを作った小林監督という、2人の監督が共同で製作している点です。