女優でエッセイストの吉行和子さんが9月2日、肺炎のために亡くなった。90歳だった。吉行さんは生前、NHK朝ドラ「あぐり」のモデルにもなった美容師の母・あぐりさん(享年107)との最期の日々を文藝春秋に語っていた(2016年4月号)。その冒頭を紹介します。
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悲しさよりも何よりも「終わってよかったね」と
母が亡くなって、いつの間にか1年の月日が過ぎてしまいました。生きている頃は1日に何度か、同じマンションにある部屋を訪ね、様子を見ることが私の生活の一部でした。100歳目前までは元気そのもの。こうやって年を取るのは素晴らしいことだな、と感じていました。
しかし、寝たきりになってからは、不満一つ表に出さず我慢をしながら生きていました。それを見ているのはとても辛く、私にとって修行のような時間でした。母にしても、寝たきり状態で人に迷惑をかけながら生きていたくない、早く終わりたいと思っていたはずです。昨年の1月5日に亡くなったとき、悲しさよりも何よりも「終わってよかったね」と、母に声をかけてあげたい気持ちになりました。
《吉行あぐりは、明治40(1907)年生まれ。作家・吉行エイスケと結婚し、一男二女に恵まれる。長男は作家の吉行淳之介(平成6年没)、長女が和子(80)、次女が作家の吉行理恵(平成18年没)。エイスケの死後、再婚している。あぐりは、美容師として活躍し、昭和4(1929)年、山ノ手美容院、戦後は吉行あぐり美容室を開き、97歳まで現役として働いた。その半生は、NHK朝の連続テレビ小説「あぐり」のモデルともなる。平成27年1月5日死去。享年107。》
吉行家は普通の人から見ると、おかしな家族だったと思います。私がもの心付く頃には、母は美容室で働いていましたから、世話をしてもらった記憶はほとんどありません。家庭のことはお手伝いさん任せで、みなさんが知っているような温もりを知らなかったのです。その影響なのでしょうか。長じてから母と接するのに緊張してしまい、他人様の方が親しみを感じていたくらいです。
そうは言いながら家族の仲は良かった。私も妹も母と同じマンションに住んで、日に何度も行き来をしていました。ところが、それぞれが気ままに生きているものですから、お互いの生活にはほとんど干渉しません。母からの連絡の方法も独特です。用事があるときは、新聞に入っているチラシの裏に「部屋に来て」といったメモが書かれ、ポストに入っているのです。
3人とも大晦日の「紅白歌合戦」が大好きでしたが、一度も一緒の部屋で見たことはありません。年末くらい3人で一緒に過ごせばいいようなものですが、1人で見るのが一番楽しいというのが共通した考えでした。元日になって母から「昨日の森進一は良かったわ」などと感想を聞けば、私や妹が誰それが良かったと答えることが普通だったのです。
90歳から始まった第二の人生
どこか、本当に打ち解けることの無かった母子の関係が変ったのは、平成9(1997)年、母が90歳の時でした。この年、母の再婚相手だった義父が亡くなりました。そして、NHK連続テレビ小説「あぐり」が放映されたのです。
テレビで自分の半生を見たことで、昔のことをいろいろと思い出し、自分の人生を振り返っていたようです。街を歩くと「あぐりさん」と声をかけられるようになったのも刺激になったのかもしれません。そこから、母にとっての第二の人生が始まったのです。
変化を薄々感じつつあったある日、私は、「友人たちとメキシコに遊びに行ってくるわ」といつものように母に伝えました。ところが、その日は勝手が違っていました。母が、「私も行く」と、ものすごく元気な声で言うのです。
「えー、だってメキシコよ」
と驚く私に向かって、
「昔は、新幹線がないのに、東京と岡山にあった美容室の支店を汽車で十何時間もかけて行ったり来たりしたんだから、飛行機ぐらい何でもないわよ」と。
それは初めて聞く母の強い意思表示でした。それまで、一度たりとも、「私はこうしたいの」という言葉を聞いたことはありません。こんなことはきっと一度きりでしょうから、連れて行ってあげようと私は思いました。
母は何よりも仕事が好きで、朝から夜まで美容院にいるほうが楽しいと考えているタイプです。それまで、日常生活で一緒に食事をしたり、四方山話をしたこともありません。私は60歳を超えて91歳の母と、メキシコの地で初めて寝食を共にすることになったのです。
ところが、体を壊したのは私の方でした。
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吉行和子さんのインタビュー「吉行あぐり107歳の看取り記 没後1年、母親の最期の日々を初めて明かす」のつづきは、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」で読むことが出来ます。


