「俺がすごいなって思ったのは、その借金というのは橋本さんの信用だけで借りてたものだったこと。安置所のお寺には親族は誰もいないから、しょうがなく俺が『一応、話は聞きます』って借金取りの対応もした」
ライバルだった小川直也が明かす、「知られざる橋本真也の借金事情」とは? 『証言 橋本真也 小川直也、佐山聡、蝶野正洋らが語る破壊王と「1・4事変」の真相』(宝島社)より、かつて「引退」をかけて戦ったこともあるライバル・小川直也氏の章を一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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2005年7月11日――橋本真也が40歳で死去
橋本が肩をケガして以降、ZERO-ONEの経営状況は悪化。観客動員の低下だけでなく、古巣の新日本をベースにした高額なファイトマネーや、身の丈に合わない金銭感覚で、会社的には坂道を転げ落ちていくような状況だった。また、橋本のプライベートの女性関係の問題などもあり、他の選手やフロント陣とは決定的な溝が生まれてしまっていた。
そしてついに2004年11月25日、橋本はホテルインターコンチネンタル東京ベイで記者会見を開き、多大な負債によるZERO-ONEの活動休止を発表。橋本を除く所属選手たちは、新たに「プロレスリングZERO1-MAX」を設立して再出発することとなった。
「ZERO-ONEの活動休止っていうのは、経営不振ももちろんあるだろうけど、一番の要因は橋本さんがケガで試合ができないってことだったと思うよ。橋本さんのスポンサーだったエレベーター会社の社長は最後まで支援していたはずで、橋本さん自身が負債で苦しんで、どうしようもなくなったという話じゃなかった。結局、体が動かないと試合ができないし、現場ともますます距離が開いちゃって、そこがいちばんキツかったんじゃないかな。
俺のほうは当時、ハッスルとPRIDEの両方に出ていたから忙しくて、自分のことで精一杯だった部分はあるんだけど。橋本さんとは連絡を取ってて、『ハッスルではいつでも待ってますよ』という声がけはさせてもらったんだよ。『体が悪いから、治してからじゃないとまだ無理だ』と言っていたから、こっちは待つことしかできなかった。橋本さんがいつ戻ってきても大丈夫な準備は、ハッスルでずっとしていたよ。変な話、『体一つで来ればいいよ』っていう話はしていたからね」
2005年の春から橋本は再び表舞台にも姿を見せるようになり、復帰に向けて動き出したことを宣言。小川や蝶野からエールが送られ、いよいよ復活間近かと思われた。
しかし、同年7月11日、橋本真也は脳幹出血で急死してしまう。

