黒板家がまだ東京にいた頃、仕事が早く終わった五郎は蛍を伴って、令子の職場である美容室に行く。五郎が裏口のドアを開けると、下着姿の令子が煙草の煙をくゆらせながら男と楽しそうに談笑している。その姿を蛍も目撃してしまう。そこでかかっていたのはハイ・ファイ・セットの「フィーリング」。
一方純は、ある日夜中に目が覚めると居間のステレオからハイ・ファイ・セットの「雨のステイション」が流れていることに気づく。ドアの隙間から覗くと令子が誰かと長電話をしている。片手には、灰が長くなった煙草。純はそのときの令子の様子を「いつもと違う、別の人みたいで」とナレーションで振り返る。
蛍と純が共に目撃した、「女」の顔をした母と、煙草。そのとき流れていた音楽はハイ・ファイ・セット。しかし受け取ったものはまったく違う。蛍は母の浮気の決定的瞬間を見てしまったのに対し、純は事の全容を理解するまでには至っていない。双方の体験の違いが、富良野に来てからの2人のひとつひとつのリアクションの違いにつながっている。さらに言えば、その後大人になる2人の行く末にまで影響している。
蛍は五郎の言うことを素直に聞き、富良野の過酷な環境にもすぐに順応していくが、純は早々に東京に帰りたがる。ラベンダーの季節に令子が富良野を訪ねてきたとき、蛍はずっとつれない態度をとり、そんな蛍を純は責める。蛍の心の中に令子への愛憎が渦巻いていることがわかる。だからこそ、令子の乗った列車を蛍が全速力で走って追いかける第17回の名シーンが胸に突き刺さる。
純と蛍はこのことについての答え合わせなど一生しないだろう。視聴者は目撃しているけれど、兄と妹は互いに「そんなことは、全然知らなかった」。子どもを単に無垢で清らかな存在として置かず、子どもは子どもで事情も「ずるさ」も葛藤も抱えていると描く。
子どもを作り手の都合で動く「装置」ではなく、年の若い「人間」として造形している。これもまた本作の魅力のひとつだ。
「その1万とちょっと、わしら、稼ぐ苦しさ考えちゃうんです」
シリーズを通して同じモチーフを繰り返す「再演」の仕掛けも巧みだ。その種蒔きもまた、連続ドラマ全24回の中にしっかりとなされている。
『’87初恋』の「泥のついた1万円札」はファンの間で「泣ける名シーン」の筆頭に挙がる。純を東京まで乗せていってくれるトラック運転手(古尾谷雅人)が五郎から礼として渡されたピン札の2万円に泥がついていた。それは、お金を下ろす直前まで五郎が泥にまみれて労働していたことを意味し、五郎の生き様をも象徴している。
この「泥つき1万円札」と併せて味わいたいエピソードが、連続ドラマ第23回にある。令子が急死し、五郎は3人分の飛行機代だけなんとか工面して純と蛍と雪子(竹下景子)を先に飛行機で東京へ向かわせる。
五郎自身は一昼夜かけて列車で向かい、遅れて到着して、葬儀が終わるやいなやすぐに富良野へ帰った。このことを、令子の親戚は「誠意がない」と責める。しかし、その場にいた五郎の従兄・清吉(大滝秀治)が五郎の事情を代弁する。
「飛行機と汽車の値段の違い、わかりますか? あなた。1万円とちょっとでしょ。けどその1万とちょっと、わしら、稼ぐ苦しさ考えちゃうんです」
このシーンを見ているのと見ていないのとでは、のちの「泥つき1万円札」の重みが変わってくる。また、純がタマ子(裕木奈江)を妊娠させてしまう『’92巣立ち』でも、お金の重みと「誠意」というキーワードに焦点が当たる。
『2002遺言』で五郎は、自分の畑で採れる野菜の物々交換で暮らし、賃金の発生する労働をほぼしていない。堆肥を作り、炭を焼き、木酢液を作って農業を営む仲間に配る。「手間返し」という労働交換で生きている。最終章で五郎とこの物語が行き着いたのは、究極の誠意とは金で払えることではなく、「この身ひとつで人の役に立つことをして生きることである」という結論だった。
