つまり良質のエンターテインメント作品というのは、冷静に分析してみたり、時間が経ったあとでもう一度触れたりしたとき、仮に「だから何なん?」と思われたとしても、作品の消費中にそのように感じさせないからこそ「良質」なのではないだろうか、と思うのである。
ついでに触れると、いくら冷静に分析しても、そして何度触れても、消費者に「だから何なん?」とは思わせない作品のことを、蓋し最高のエンターテインメントと呼ぶのであろう。そのような作品に出会ったとき、私は「なぜ自分はこの話を書こうとしなかったのか」と忸怩たる思いを抱いたり、「どのように努力すればこのような話を思いつけるようになるのか」と懊悩したりする。私にとって最高のエンターテインメント作品は、私を十分に楽しませたあと、私を存分に苦しめるのである。
良質、ではなく、量質転化の法則、という考え方もある。量は質を担保するという発想が誰のものなのか分からないが、随分前から気に入っている。この法則が仮に普遍の法則なのであれば、質の向上のためには触れる量を増やすべきだということになる。私がこれから作家として活動していくのであれば、読書はもちろんのこと、映像作品はじめさまざまな作品に触れ、さまざまなことを勉強し続けなければならないということを示唆していると言えるかもしれない。
ただし、読書については一つルールを設けている。「今ご存命の作家さんの歴史エンターテインメント作品は読まない」、である(ごく一部例外あり)。したがって、今回の松本清張賞応募にあたっても、過去の受賞作はあえて一切読まなかった。理由は単純である。私の場合、それらを一たび読んでしまえば、「そういうものをそういう風に書かなければ認められない」と思い込んでしまうからである(もちろん、私がそのように一部の作品に対して排他的な態度を取ることで、本来得られるはずのものが得られなくなっているデメリットがあることは、百も承知である)。
何の実績もない分際で「エンターテインメントとは」と偉そうに書いてしまったが、今回の受賞作が読者の方々にどのように映るのか、恐ろしくて仕方がない。
ただ、そこまで悲観的でなかったりもする。
というのも、この小説を書いたのは何の実績もない私だが、選んでくださったのは日本文学振興会のみなさん、そして作家として第一線でご活躍されている選考委員のみなさんである。さらに、文藝春秋社の編集さんの助言をも受け、作品は投稿時よりもブラッシュアップされつつある(と信じている)。それらの方々が推し、支援してくださっているのであるから、拙著『白鷺立つ』は、少なくとも悪質なエンターテインメント作品ではないはずである(と信じている)。
というわけで、本稿を最後まで読んでくださった方々には、SNSを含めた各種連絡網を必要以上に駆使し、ぜひ一人でも多くの方へ拙著を広めていただきたいと思う。
住田祐(すみだ・さち)
1983年、兵庫県生まれ。会社員。2025年『白鷺立つ』で第32回松本清張賞を受賞しデビュー。