『ハンチバック』を発表してからの反響
往復書簡のやりとりを改めて読み返すと、おっかなびっくり初々しい語りをしている自分に苦笑いしてしまいます。二年の間には本来のお調子者の地金がちょろちょろと露出してきて、収拾がつかなくなりはじめてもいる今日この頃です。荒井さんに釈華を「世界にとっての異物になってやりたい」情念を抱く人物と解釈していただき、それがこの往復書簡のタイトルに切り出されてもいるわけですが、異物としての強度と一貫性を保つことの難しさとでも言いますか……。いえ私自身は世界の異物になってやりたいなどと思ってはいないのですが。思っていないのですが、私の言葉だと誤解している方が多いようなので、ここで誤解を解くとともに念を押しておきます。
そう、私はそもそも障害者を異物と見做して排除する社会に異議を唱えるために『ハンチバック』を書いたので、その主人公が「世界にとっての異物になってやりたい」情念を持つ者として読まれるというのも面白いことだなと思います。障害者につきまとう異物のイメージを何とかして消したい、無効化したい、解消したいと、あらゆる知恵を絞り策を弄しても、そのもがき方に異物という言葉が似合ってしまう。障害者につきまとうこの異物感が消えてなくなる日って来るんでしょうか?
釈華が「世界にとっての異物になってやりたい」という情念を抱えていたとして、その異物たらんとする自己像の殻を崩壊させてやる物語の構成までが作家の仕事と言えるのかもしれません。
『ハンチバック』発表以来の反響には、健常者(強者)としての罪悪感を感じた、という声が多くありました。それは作品の感想のみに収まらず、当事者作家として姿を現している私を障害者(弱者)側に置いてのものでもあったろうと思うのですが、しかし、その罪悪感は私にとって、とても馴染み深く、よくわかる感覚でした。むしろ、それは私が人生の大部分において感じてきた罪悪感でした。私にはできる⇔彼女にはできない、という強者側の罪悪感。感想をサーチしては、それはよくわかる、わかるんだよー、と心の中で呟いていました。その辺りから、「女の子の背骨」(単行本『女の子の背骨』文藝春秋刊に収録)という話を書く動機が生まれたのでしょう。「女の子の背骨」は、七歳上の寝たきりの姉がいる女の子の話です。姉妹は同じ先天性の難病を患っているけれども、いつでも姉のほうが妹よりも不自由で、妹は姉よりも自由。『ハンチバック』は私小説とは言いがたいが、「女の子の背骨」は私小説と言っていいかもしれないと私は位置付けています。しかしいずれにしても、『ハンチバック』の釈華は経済力の面で強者性を持ち、「女の子の背骨」の主人公は健常児と比べれば身体的弱者でありながら姉に対しては身体的強者である――こうした相対性、インターセクショナリティの提示によってあらゆる二元論の解体を試みることが、障害者につきまとう異物のイメージを粉砕するための、私なりのアプローチであると言えそうです。
ある一面では弱者であっても、別の一面では強者である――このようにして強者と弱者の相対性を自覚することは、誰であろうと必ず持つべき観点であり、現代の社会に広がる意識の分断に呑まれないためにも効果的な処方箋だと思っています。何よりも大事なこととして、こうした思考法を自己正当化のために用いるのではなく、相互理解ということを忘れないでほしい、絶対に諦めないでほしいと私は思います。
