十代のころは、読書の力を信じていた
特に芥川賞の受賞以来、私が意識的に主張してきたのは、読書文化が象徴する読み書き能力の神聖化への警鐘でした。言葉を理解して喋れること、読み書きできること、言葉で感情や意思を伝えられること、勉強や発信ができること――社会にはそんな人間か、訓練すればそうなれる人間しかいないのだという思い込み。〈そりゃあ例外はいるかもしれないがあくまで例外であって社会の成員として数える必要はない〉とでも言いたげな、あらゆる知識人の言論。高等教育機関で学んだエリート(体力エリートでもある人たち)が社会を設計して動かしていること。これらの大本にある、言語能力を中心に据えた人間観。それらに対して無警戒で無邪気で無疑問であること。――つまるところ近代社会を基礎づける言葉信仰を、私はすべて問題視しています。小説家になっておいてあるまじきことですが、私は言葉というものを信じていません。
なぜ警鐘を鳴らさなければならないか。理屈ならいくらでも美々しい倫理を積み上げられるのですが、第二便ですでに「近代社会が自己決定権の印籠の元に、明晰な自己意志を持つ標準的な身体のみを社会に揃えることを目指しつづけ、不良品の排除を進めるというのならば、――」と、片鱗を記してもいますから、ここでは割愛します。理屈とは別に、私があえて警鐘役をやる理由は、ただ単に私が天邪鬼だからです。
私も十代の頃は、読書の力を信じていたんですよ。本を読めば他者への想像力が付いて思慮深くなれる。だからみんな本を読むべき。読書こそが人間と社会を成熟させる。本は素晴らしい。と純粋に思っていましたよ。しかしインターネットの発達とともに生きてきて、特にSNSの時代になって、年がら年じゅう喧嘩している学者・知識人やら、ガラス張りの図書館を紹介したライターに(紫外線が本を劣化させるのが許せないからって)口汚く苛烈な言葉を浴びせてののしる本好きたちなどを見ていると、本ってたくさん読めば読むほど人間をかくも攻撃的にするんですねえ、と嫌味の一つも言いたくなるではないですか。昔の文芸誌や言論誌で、ある程度の長文論考のやりとりを載せて成立していた論争になら一定の価値もあったように思うのですが、消え物でしかないSNS上の口喧嘩ほど不毛なものはない。彼人らは何を思って飽きずにあんなことを続けているのでしょうね。
知性!
意思の疎通!
自己決定権!
くだらない。
