読書バリアフリー問題は未だ道半ば
『ハンチバック』のおかげで読書バリアフリーという言葉の認知度が一気に高まりました。この運動をそれなりに気にし続けてきた者として、率直に「ありがたい」という思いでいます。読書バリアフリーの普及を求める運動は海老原宏美さんだけが担ったわけではないのですが、彼女には人を惹き付ける独特の存在感があったことは確かです。その海老原さんに影響を受けた市川さんが読書バリアフリーの認知度を高めてくださったことに並々ならぬご縁を感じているのですが、とはいえ、この問題は未だ道半ばといったところでしょうか。
読書バリアフリーは、世間的にはまだまだ利便性の次元で語られることが多いようです。本をデジタル化(電子書籍化)すれば目標達成、といった具合に。しかしながら、これはあくまで人権の次元、あるいは社会的排除の問題として語られるべきだと考えています。この往復書簡の趣旨にそって一例をあげるなら、「文学そのものから遠ざけられる人がいる」と言ったらよいでしょうか。
私たちの社会に存在する文学という概念(「文学というのはこういうものだ」という感覚や価値観そのもの)は、長い歴史の中で、特に紙の本を基準にして作られてきました。すると、障害などの理由で紙の本にアクセスしにくい(自由に書店に行けない、読書姿勢が保てない、ページをめくれない、墨字を読めない)人たちは、文学という概念自体から遠ざけられることになります。こうした概念や習慣や感覚からの排除というのは非常に見えにくい。そこに社会的排除が存在するのだということへの想像力がわきにくいのです。だからこそ、紙の本へのルサンチマンをぶちまけ、無自覚な〈健常者優位主義〉を喝破した『ハンチバック』が「文学」の本丸である芥川賞を受賞したことは画期的なのです。
見えない排除が可視化されるには、どうしても「異物」の存在が必要になるでしょう。あるいは、「異物」の存在が排除に関する想像力の貧困さを暴き出すのかもしれません。好むと好まざるとにかかわらず、誰かが「異物」になったり、されたりすることで、ようやく排除が存在したことに気が付くという状況は存在し続けるのだと思います(こうして押し付けられた「異物性」を自覚的に引き受け、身体ごと社会にぶつかっていこうとしたのが青い芝の会のような告発型の運動だったのでしょう)。そもそも、健常者社会から「異物」として排除されている人たちのことが「障害者」という言葉でラベリングされている、という側面もあるはずです。
