誤解されやすい福祉の理念

 それにしても、今回いただいたお手紙を拝見して、強者と弱者の相対性のお話に(しび)れました。確かに、『ハンチバック』は〈釈華〉や〈田中さん〉の強者性と弱者性が世間一般のそれとは異なる様相で発現したり反転したりする点に一つのスリルがありました。この複雑な相対性を複雑なままに提示することによって、健常者と障害者のステレオタイプ(健常者=「強い」「できる」「幸福」「豊か」/障害者=「弱い」「できない」「不幸」「貧しい」)を無効化していくのが市川さんの戦略だったとしたら、本作はなんと緻密に()られた小説でしょう。

 確かに、人と人は、個と個が向き合う範囲においては、その時々の状況や文脈に応じて強者と弱者が流動的に入れ替わります。だからこそ、どんな人であれ、どんな状況や文脈であれ、最低限の権利が保障される場や制度が必要です。私の理解では、おそらくそれが公共や福祉といった概念になるのだと思います。〈釈華〉と〈田中さん〉が互いに主導権の奪い合いを演じられたのも、グループホームという物理的な箱と、障害者総合支援法という制度的な枠組みの中だからこそ可能だったのでしょう。

 ただし、「誰の権利もまもられる」という福祉の理念は、「弱い人をまもってあげる」と理解(誤解)されやすく、「まもってあげる強者」と「まもってもらう弱者」という力の上下関係を生みやすい。多くの関係者によって何度も警鐘が鳴らされてきたように、福祉現場にはどうしても構造的な暴力が生じやすいのです。

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〈釈華〉と〈田中さん〉が口腔性交へと至ったあの件も、個と個が互いに強者性をめぐる(つば()り合いを演じて見せたという一面と、介助する者とされる者との間にある構造的な力の勾配が男性介助者に都合よく利用されたという一面と、両面あるのでしょう。〈釈華〉個人の主観的には前者に見えても、少し引いた読者の目には後者の事件として映ったかもしれません。この割り切れなさ、厄介さ、後味の悪さも、小説『ハンチバック』の真価なのかもしれませんね(褒めています、念のため:笑)。

『凜として灯る』(現代書館)は、「『モナ・リザ』スプレー事件」を起こすに至るウーマン・リブの運動家、米津知子の半生を描く。