藩主に対して祖父が行ったすごい行動
セツは自筆の「オヂイ様の話」にこう書いている。
「私の子供の時にお友達ちの家へ行くとそこの老人からよく御祖父様の話を聞かされました。あなたのお祖父様は忠義なえらい方で御座いました。私はそう聞くと自らがほめられた様にほこりを感じてなんとなく愉快でした。母方の御祖父さん塩見増右エ門様は役のついてゐる家老で禄高は千何百石召使は三十人近く、屋敷は殿町二の丸のお堀の前でした」
どのように「忠義なえらい方」だったかだが、セツの原稿には続いて、忠義の具体的な内容が概ね次のように記されている。
ある日、江戸で大事件が発生し、「増右エ門様俄に病死」という早打ちが松江に届けられたという。なにが起きたのか――。9代藩主の松平出羽守(斉貴)はわがままで贅沢や放蕩をきわめ、酒と女と乱暴についての逸話が残るほどだった。増右衛門はこれを見逃すことができず、御前で諌めたが聞き入れられない。ふたたび諫言したがダメ。そこで覚悟のうえで3度目の諫言をしたという。
その際、増右衛門がただならぬ様子だったので、出羽守は家臣に、家老詰所まで様子を見に行かせた。すると、閉ざされた襖の向こうで、増右衛門はすでに息絶えていたという。じつは、増右衛門はこっそり腹を切ったうえで、傷に白木綿を固く巻きつけて出羽守の御前に出向き、死をもって諫言していたのだ。さすがの出羽守も藩主を退き、頭を剃って謹慎したという。
セツが「オジョ」と呼ばれたワケ
セツの実母の小泉チエは、この塩見増右衛門の一人娘で、500石の御番頭であった小泉弥右衛門湊のもとに嫁いだ。この湊がセツの実父だが、わざわざ「実母」「実父」と表記するのには理由がある。
セツの養父母は100石の組士を務める並藩士、稲垣金十郎とトミ夫妻だった。セツの実母は稲垣家と、今度子供が生まれたら養子にあたえるという約束を交わしており、セツは生まれてわずか8日目に、稲垣家にもらわれていったのである。並藩士の家が、家老の孫娘かつ上級家臣の娘を養女にもらったので、セツのことを、お嬢を意味する「オジョ」と呼び、いつくしんで育てたという。