付言しておくと、戦前・戦中の「ウラの言論」は、戦後の「オモテの言論」となったわけだが、戦後にあっても、武装共産党に始まる過激化した左翼運動などは、やはり「ウラの言論」のなかに存在した。ただ、戦後の「オモテの言論」の基本的な部分は、戦前・戦中の「ウラの言論」が、占領下にアメリカン・デモクラシーの主導のもとで、再構成されていったと言うことができる。
「戦後80年」の夏、参政党などの国家主義的右派政党が擡頭したことは、戦後、「ウラの言論」に抑え込まれたはずの地下水脈が、社会の表側に露出してきたことを意味する。それは同時に、戦後の「オモテの言論」、つまり戦後民主主義の虚構性や脆弱性が露呈した事態ともみなされ得るのである。
戦後民主主義が、国家主義的右派言論を社会のウラに抑え込んできた力学自体は、歴史的な知恵として評価できる。戦後の自民党は、宇都宮徳馬のような左派政治家から、石原慎太郎のような青嵐会の右派政治家までを併吞してきた。
ある閣僚経験者の返事
かつて私は、自民党のある有力な閣僚経験者に問うたことがある。それは、失言という形でがさつな歴史認識を示したり、軍事を過剰に強調する言動を繰り返したりする一部の右派政治家を念頭に置いてのことだった。私はこう訊いた。
「僕はああいうタイプの政治家は恥だと思うし、彼らが党内にいると、いろいろ苦労するんじゃないですか?」
ところが彼の返事は意外なものであった。
「ああいう政治家を抱え込んでいるのは、むしろいいことなんです。彼らの暴発を党内で抑え込むことにもなるし、彼らの動向や社会的なエネルギーを党内で見極めることもできるわけですから」
私はなるほどと頷き、かつて後藤田正晴が「右派をも包摂することで、その勢力を削ぐことができる」という意味のことを語っていたことを思い出した。
※本記事の全文(約8500字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」と、「文藝春秋」2025年10月号に掲載されています(保阪正康「参政党現象と天皇機関説事件」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。
・「攘夷の思想」が地下水脈に
・帝国大学令を構想した伊藤博文
・大日本帝国憲法における天皇
・天皇機関説への排撃運動
・美濃部狙撃5日後に二・二六
・瀬島龍三を若い世代の目で

