太平洋戦争の起点である真珠湾攻撃とは、何だったのか。ハワイ・オアフ島の真珠湾へ、連合艦隊司令長官、山本五十六の命で空母機動部隊が奇襲をかけたのは、1941年12月8日の未明。そこに至る経緯から、作戦立案に関する疑問、そして、真珠湾攻撃が後の戦いにどう影響したのか(全2回の1回目/後編に続く)。
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真珠湾攻撃後、お祭りムードになった日本
戸髙 真珠湾攻撃が報じられると、日本はお祭りムード一色となりました。大本営発表が次々と出て、街では号外が飛び交った。奇襲の成功と日米開戦を祝うちょうちん行列が行われ、東京株式取引所の相場も急上昇します。首相の東條は、真珠湾攻撃当日に陸海軍の関係者と会食し、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」と上機嫌だったと言います。
保阪 この時、官僚たちが東條のご機嫌取りをした。情報局総裁の谷正之らは「ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニを世界の英傑だという。しかしながらもっと偉大な英傑が日本にはいらっしゃるではないか。すなわち東條英機閣下がそうであります」と。よくもまあ歯の浮くようなおべんちゃらを、恥ずかしげもなく言えたもんだなと(笑)。
イエスマンが東條の周囲に集まり、後に「憲兵政府」「東條幕府」と揶揄された権力集中が強まりました。結果、これまで以上に東條の恣意的な人事がまかり通るようになる。インパール作戦の司令官・牟田口廉也は、その最たるものです。
大木 一方でアメリカでは真珠湾攻撃の反省、検証をすぐに始めました。ルーズベルトは連邦最高裁判所の陪審判事、オーエン・J・ロバーツを長とするロバーツ委員会を作ります。ハズバンド・キンメル太平洋艦隊司令長官を更迭し、チェスター・ニミッツに替えるなど、責任の所在も明確にしました。



