戸髙 アメリカは国家総力戦体制へと舵を切ります。たとえば民間の飛行機学校を即座に閉鎖し、軍に志願する学生だけを集めて教育を再開。翌年のミッドウェー海戦やソロモン海戦の頃には、そこで学んだ予備学生が第一線に加わった。工場も24時間の稼働を開始しました。

 日本は熱狂の渦で、戦時生産が阻害されてしまった。学徒動員をすれば良いというわけではありませんが、日本は1943年まで、学生たちは徴兵猶予。戦争が新しいかたちに変わっていたことへの認識が、まったく追いついていなかった。

保阪 真珠湾攻撃後の問題点として指摘しておきたいのが、第二段作戦計画がまったくの白紙だったことです。12月10日、海軍陸上攻撃機隊はマレー沖でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスの両戦艦を撃沈します。翌々日の大本営政府連絡会議で、この戦争を「大東亜戦争」とすることが正式決定。16日、戦艦大和が竣工し、連合艦隊の第一線に姿を現します。

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 そして海軍は、国中が相次ぐ大戦果に沸く中で、ようやく第二段作戦をどうすべきかの議論に入った。

戸髙 真珠湾を攻撃すると同時に、南方地域を占領して油を押さえるという第一段作戦を、陸海軍で打ち合わせて協力体制を築きましたが、それが精一杯。第二段作戦は、陸海軍の調整どころか、海軍の方針さえも定まっていなかった。

保阪 山本の4期上の永野がトップの軍令部と、連合艦隊司令部の間で大激論が交わされ、連合艦隊司令部が策定した第二段作戦計画を軍令部が承認したのが、1942年4月3日のこと。端的に言えば、ミッドウェーで敵空母を叩き潰し、アメリカとオーストラリアを分断するという二段構えの作戦でしたが、開戦から実に4カ月が経っていました。

独ソ和平に動いた山本

楠木 そこが本当に驚きです。山本だけの責任ではないと思いますが、リーダーは目標を設定して、そこから逆算して計画を立てていくもの。資源的制約もあって、目先のことしか考えられなくなっていた。

 真珠湾の戦果をもって、講和に持ち込むのか、第二段作戦を実行してから停戦交渉に入るのか、出口戦略がまったくなかった。

大木 実はドイツ側の資料によると、その間に山本が政治的に動いた形跡があります。1942年2月、軍令部第7課長の前田精(ただし)と第8課長の中堂観恵(ちゅうどうかんえい)が駐日ドイツ海軍武官と会談して、独ソ和平を日本が仲介すると持ちかけています。この話は連合艦隊司令長官も承知していると。ドイツの戦力をソ連から対英米戦に振り向けたいが、山本は表だって外交に介入できない。そこで軍令部を通じてドイツに働きかけた可能性があります。結局、この提案はリッベントロップ外相が拒否しましたが。