新浪 日独伊三国同盟はたしかに軍事的・政治的な協力関係を築いた同盟ですが、三国の間には様々な摩擦も存在していました。特にドイツとは、同じ持たざる国としてアジアでの資源や市場をめぐる競合も存在していました。加えて、ドイツはヨーロッパでの領土拡張を目指しており、日本とは戦略も戦場も全く異なっていた。ただ、アメリカ側も大西洋と太平洋の二面作戦を実施しており、日本とドイツが本当の運命共同体で、お互いに信頼関係を築くことができていたならば、もっと違った戦い方ができたかもしれません。

三国同盟反対派の米内と山本

 残念ながら、当時のドイツが独裁国家であることを日本は十分理解できていたとは言えず、ドイツには日本を軽視する動きもあった。日本は、出口戦略を欠いた、何とかなるだろうといった楽観的な思考に陥っていたとも言えるかもしれません。

 それと、日本人の楽観的な考え方は、死生観と関係があるかもしれません。武士道では、死ねば責任を取ったことになる。切腹に象徴されるように、みずから身を引くか、反省の姿勢を示せば、それ以上は追及されない。ビジネスで大失敗をしても社長が辞めれば、世間も「まあ、勘弁してあげよう」となりがちです。だから、戦争という国家存亡の一大事においても、楽観主義の空気が支配していたのだと思います。

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日本国民にとって「戦争は景気を回復させる手段」だった

香田 日露戦争の成功体験に基づいて、対米戦争を始めてしまったからでしょう。そして何といっても、第一次世界大戦の衝撃を経験していないことが大きかったと思います。

 第一次大戦では、国家が軍事力だけではなく、経済力、科学力など、持てる力のすべてを費やす総力戦へと変化しました。その影響は市民生活にまで及びました。ヨーロッパ、とくにイギリスはエリート層も次々と戦死し、社会に多大なインパクトを与えました。日本は自国から離れた地域で少し参戦しただけで、列強の一国としてヴェルサイユ条約に調印。ドイツの山東省の権益や、パラオやマーシャル諸島の統治権を獲得するなどの旨味を手にしてしまった。

戸髙 世界恐慌の後も、1931年に満州事変が起こると、経済はバブル状態へと突入しました。日本国民にとって、戦争は景気を回復させる手段だというイメージが、完全に染みついてしまいました。

※本記事の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(「ザ・日本人好み」のリーダー〈真珠湾奇襲〉山本五十六名将伝説を検証する)。

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