太平洋戦争の起点である真珠湾攻撃とは、何だったのか。ハワイ・オアフ島の真珠湾へ、連合艦隊司令長官、山本五十六の命で空母機動部隊が奇襲をかけたのは、1941年12月8日の未明。そこに至る経緯から、作戦立案に関する疑問、そして、真珠湾攻撃が後の戦いにどう影響したのか(全2回の2回目/前編から続く)。
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開戦で「万歳」を叫んだ日本
楠木 半藤一利さんの『十二月八日と八月十五日』を読んで知ったエピソードがあります。広島の原爆死没者慰霊碑の碑文に〈安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから〉という文章が刻まれていますが、これを考案したのはある広島大学教授だそうです。実はこの教授、開戦の臨時ニュースが伝えられると廊下に飛び出し「万歳」と叫んだ御仁だとか。当時の日本人にとって、戦争がどういうものとして認識されていたのかを、象徴する話です。
大木 確かに12月8日は、高村光太郎も斎藤茂吉も、醒(さ)めているべき文学者まで、快哉を叫んでいたわけですからね。一方、ドイツはどうだったか。第一次世界大戦では、出征する軍隊を国民は大通りで歓声を上げて見送った。しかし1939年、ドイツがポーランドに侵攻した時、ベルリンの街中はひっそりと静まり返っていたと言われます。第一次大戦の悲惨な経験があったから、「また戦争をするのか……」と国民は暗澹たる思いになったようです。
保阪 真珠湾攻撃直後の国民の異様な高揚感は、泥沼化していた日中戦争への閉塞感から解き放たれたのが一つ。そして、欧米列強の帝国主義に対して、人種差別を撥ねのけ、正面から戦って一矢報いたという痛快な思いも、人々の意識にはあったでしょう。こうした日本社会の認識の歪みが、真珠湾攻撃を“大成功”という形で押しとどめて、戦後あらためて分析することを怠ってしまったのかもしれません。
戸髙 やはり戦後の教育の問題が大きいのではないでしょうか。戦後日本は平和教育を掲げて、「軍隊と戦争を教えない」方針を続けてきました。事実を教えずに、将来を担う子供たちに無知であることを求めることを教育と言えるのでしょうか。
優秀でも精神主義に陥る
大木 10年ほど前、新聞記者が択捉島の単冠湾を訪ねたルポを読んだんです。単冠湾には赤城や加賀など、海軍の機動部隊の艦船が集められ、ここから真珠湾に向けて出発しました。ところが、記事では「ここから出撃した航空隊がハワイを空襲した」と書いてあった。攻撃機が単冠湾からハワイまでたどり着けるのなら苦労しないよと(笑)。教育を怠ると、こんなとんでもない勘違いをしてしまう。



