今回のクーラーの問題が見せつけるもの
そういう都民1300万の怒りのエネルギーが首都圏の温暖化を促進しているのかと思うと辛い気持ちになりますが、今回のクーラーの問題はやはり「私たちの暮らしやすさについて、あまり真剣に対策されてこなかったのではないか」という根本的なところが残されているように思います。暑い寒いはもちろん、狭い道路、開かずの踏切、もう必要ないのに強要されるごみの分別、必要なのは分かってるけど自分の家の近くには欲しくない保育園や学童施設やごみ処理場や霊園・斎場などなど、みんなが権利を主張した結果、みんなが不自由になっている結果がいまの都市生活のストレスに直結しているのではないかと思うわけであります。
日本の場合、そういうインフラや安全があって当たり前という信仰が強すぎると思うのです。安全な水を飲めるのは当たり前と思っている日本人が、公共事業でも民間に出せばより安くて改善するだろうと民営化に打って出ようとしたり、若い女性が夜一人で出歩けるだけ安全な日本社会を実現している警察の働きを無視して「外国人が増えたので犯罪が凶悪になった」と言い出したりします。原発を再稼働してようやく電力供給が何とかなっているのに「電気は余っている」と言い出したり、保育園を担う保育士や学童を支える職員の給料が激安でなり手がいないのに子供に安全な環境を整備しろと言い始めるわけです。それを求めるのは分かるけど、それを実現するコストがどれだけで、それに携わる人たちの労力や給料をきちんと担保しながらシステム全体を良くしていくにはどうしたらいいのか、という観点が抜け落ちていると感じるのです。
小池百合子ばりの太平洋戦争思考
いま日本で問題になるのは衰え行く国力の中で、どう効果的に少ない予算を使ってインフラを更新し、利便性を損なうことなく快適な国民社会を構築するのかだと思います。クーラーがないので暑い中で勉強させられる小中学生も、家族も養えない雀の涙ほどの手取りで介護や教育・保育に従事する労働者も、問題の構造は同じじゃないのかと思うわけですね。これこそ、「精神力さえあれば低賃金でも、クーラーがなくても俺たちは頑張れる」という、小池百合子ばりの太平洋戦争思考じゃないですか。これが正論として受け止められているうちは、この国はなかなか物事が改善しないのではないかと心配になります。なにしろ、必要なところにリソースが回らないのに、政府は賃金が上がらないと首をひねり、国会ではモリカケやカジノが主要議題になっているわけですから。
まあ「みんなが要求する通りに予算を使い続けていたら、本当に国家財政も社会も疲弊してしまう」という議論はあります。なので、いま学んでいる子供たちが大人になるころに、この社会をどういう状態にしたいのかというコンセンサスを取らないと駄目なんじゃないかと思うんですよね。教育も労働も福祉も予算が足りないっていう状況だからこそ、おカネがちゃんと回る仕組みをどう用意するかこそが、政治に求められる役割のはずなので。そういう「暑い日本」を楽しめるぐらいに強い心を鍛えてこそ日本人なのでしょうか。