その人なりの真実に触れる読書
果遠も結珠も、互いを想い合うのとは別に、心の他の部分で確かに夫や娘を想っている。藤野に対する結珠の想いは感謝という名で置き換えられるものかもしれないし、水人に対する果遠のそれは罪悪感と似た形をしているかもしれない。けれど果遠は少なくとも水人のために命がけで娘を産み、親から受ける暴力の連鎖を自分のところで断ち切ってみせた。それはやはり、まぎれもなく愛ではないか。
ある意味、二人とも生真面目すぎるのだ。何ひとついいかげんにはできないから、極端な行動に出てしまう。とくに、物語終盤に果遠が出す答えについては、賛否両論あるだろう。もしかすると、とうてい受け容れがたいという読者もいるかもしれない。
それならそれでかまわない。共感や感情移入ばかりが小説の読み方ではない。自分は別の道を選ぶだろうと思いつつも、自分とは違う選択をする人間の、その人なりの真実に触れることこそ最上の読書体験ではないだろうか。
当然のことながら、人生において優先するものは人によって違う。何を幸せと感じるかも異なる。私には、妻の選択をそのつど受けとめようとする夫たちが、ただ物わかりのいい男であるようにはどうしても思えなかった。傍から見れば優し過ぎるほど優しい夫たちは、じつは弱く、ずるい。そのことに彼ら自身もおそらく気づいていて、だからそれぞれに、相手ばかりでなく自分自身もちゃんと幸せになるための選択をしているように見えるのだ。
何をもって幸福と呼び、何をもって不幸と呼ぶのかは、常識を物差しにして決めつけられるようなことではないのだろう。世の中には一見幸福によく似た不幸もあれば、その逆もあるということを、この物語を読んできた私たちはもう知っている。
果遠と結珠にとっての未来は、それでいくとどうなのか。残酷な救済、とでも呼びたくなるその選択をどうか見届けてほしい。
最後に──。この作品は、第百六十八回・直木賞候補となり、その後、第三十回・島清恋愛文学賞の候補に挙がってきた。
二〇二四年の七月、暑い盛りに金沢で行われた選考会の席上では、選考委員それぞれから、「互いが相手を希求する気持ちを描くのに一切の理由をつけていないのがいい」「二度の再会という偶然を情景描写の妙が許している」「この分量の小説を書くのに必要充分な素材」「とにかく巧い」などなどといった評と並んで、某男性委員のぽろりとこぼした、「これはもう、夫たちの入り込む余地ないよ。男ではね、ムリ」との感想が印象的だったことを、ここにこっそり記しておく。
ともあれ、そのようにして『光のとこにいてね』は島清恋愛文学賞の受賞作となった。
一穂さんが『ツミデミック』で第百七十一回直木賞を受賞するのは、そのわずか数日後のことだ。
以来ずっと、彼女は作家として「光のとこ」にいる。
