描写の作家・一穂ミチ

 けれど二人はまもなく、文字通り〈大人の事情〉から会えなくなる。子どもにとって世界は無限なのに、同時に狭く小さく無力で、結局は大人たちの勝手に振り回されるしかない。

 再会と二度目の別れは高校生のときだが、それでも彼女らはまだ、親の管理下を離れられるほど強くはないし、親を見捨てられるほど器用でもない。一方的に押しつけられる理不尽さへの怒りは天まで噴きあがるほどなのに、二人とも、悲しくなるほど諦めがいい。なぜなのか。それは、今までどちらもが、タイプこそ違えどそれぞれに極端な母親から徹底的に押さえつけられ、幼い頃から諦めを積み重ねることでしか生きてこられなかったからだ。だからこそ、互いが永遠の特別になったのだ──、という動かしがたい現実を、〈説明〉ではなく、〈描写〉を重ねて描き出してみせた著者の筆力に圧倒される。

 

 神は細部に宿る、というのはほんとうだ。ディテールへの目の配り方にこそ、作家の個性や実力が如実に表れてしまう。もう少し言うならば、細部をどれくらい書き込むか以上に、どれくらい書かずにおくかは重要で、我慢と勇気の要ることだ。読者にこの部分をぜひわかってほしい、登場人物のことを作者と同じくらい深く理解して感情移入してほしい、そう願えば願うほど、つい〈説明〉で行間を埋めすぎ、結果、物語の翼が地上に縛りつけられてしまうといったことが起こりうる。

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 そのあたりの(さじ)加減が、この著者は何とも絶妙なのだ。

 思えば文芸第一作『スモールワールズ』の頃から、否、それより前に別ジャンルで精力的に作品を発表していた頃からずっと、一穂ミチという作家は描写の人だった。

 

 果遠と結珠が大人になってからの再会はさらに苦い。

 結珠はかつての家庭教師である藤野と結婚し、小学校の教師を休職して、本州最南端の町にやってくる。なりたかったものにはなれたけれど、現実は彼女に厳しかった。一方、母親の郷里に戻っていた果遠は、祖母の暴力から〈救って〉くれた消防士の(みな()と結婚して一児をもうけ、今はスナックのママをしている。何しろ狭い町、狭い社会だ。出会わずにいられるわけがない。二人は、またしてもある種の諦めとともに、大人の態度で現実を受け容れ、ぎこちなく旧交を温め合い、新しい関係性を作りあげようとするのだが―。

 〈光のとこにいてね〉

 という言葉は、考えてみればとても弱々しい祈りだ。〈あなたの光になりたい〉でもなければ、〈あなたの上に光が降り注ぎますように〉ですらない、ただ〈あなただけは光のところにいてくれたら〉という、かそけき願い。三度の別れの場面において、異なる意味合いを持ってくり返されるその言葉は、相手の幸せを願うという点は通底している。それを(こいねが)う側が常に、光ではなく影のところに立っていることも含めて。