もともと「必ずしもトイレ狙い」ではなかった
――2億円トイレは、若手建築家を対象にした大阪・関西万博のコンペの一環として生まれました。そもそも、万博に携わるきっかけは何だったんですか。
米澤 1970年に開催された大阪万博が、日本の建築界にとっても大きな意味を持つイベントだったことが大きかったと思います。お祭り広場を設計した丹下健三さんや、建築が新陳代謝する「メタボリズム」という運動を推進した黒川紀章さんら新進気鋭の建築家と言われた皆さんが、万博をきっかけに世界に羽ばたき、活躍の場を広げていきました。
一方で、手軽に海外へ行けて、スマホで簡単に知りたい情報が手に入る現代に、わざわざ万博を開催する意味については、しっかり考える必要があるとも思っていました。
それを差し引いても、一人の建築家として、機会があれば何としても挑戦してみたい舞台でしたし、未来社会の実験場としての側面を通してこれからの社会を切り開くような新たな建築の在り方にチャレンジし、国家プロジェクトだからこその発信力を活かして広く世界やこれから建築家を志そうとする若い人たちにもメッセージを伝えられるのではないと考え応募を決めたんです。
――コンペの対象施設には、トイレ以外に休憩所なども含まれていました。米澤さんは最初から、トイレ狙いだったんですか?
米澤 いえ、必ずしもトイレを狙っていたというわけではなく、最初の選考では、対象施設のうち最も大型で、いろいろなチャレンジをできそうだったことから休憩所を対象として建築案を構想し、応募しました。その後、審査員の方たちの判断により建築案を基に大型トイレ建築という用途と敷地を割り当てていただきました。
――どのようなテーマを設けて建築を考えられたんですか?
米澤 黒川紀章さんらが注目を集めた1970年の大阪万博で花開き、同時に終焉したと言われているメタボリズムの再興をテーマにしています。
1970年は、経済成長の一方で、公害や環境汚染も問題になっていました。そうしたこともあって、建築物の全部を壊すのではなく、老朽化した設備を更新しながら、身体の細胞が新陳代謝を繰り返すように、常に新しい建築を作り続ける「メタボリズム」の発想が注目されましたが、さまざまな理由から定着することはありませんでした。
現代の日本に目を向けると、当時よりも経済も停滞していて、世界的にも環境の意識が高まっていて「環境に配慮しながら、限られた資源をどのように使うか」が求められるようになっている。そんな時代だからこそ、あえて再びメタボリズムを取り入れてみることにしたんです。
