樋口哲雄さん(52歳・埼玉県出身/東京都品川区在住)は、医療業務請負会社で契約社員として働いている。現在の年収は270万円台後半。妻(49歳・運送会社勤務)と、大学2年の長男(20歳)、高校2年の長女(17歳)の4人で暮らしている。
かつては年収700万円を得る正社員として安定した生活を送っていた樋口さん。だが、なぜ彼は“年収6割減”という現実に直面することになったのか――社会問題化しつつある「ミッドライフクライシス」(中年の危機)に直面した50代を追った、増田明利氏によるルポルタージュ『今日、50歳になった―悩み多き13人の中年たち、人生について本音を語る』(彩図社)から一部を抜粋してお届け。なお、登場人物のプライバシー保護のため、氏名は仮名としている。(全2回の1回目/後編を読む)
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ITバブル時代の残業代は「青天井」だった
都内城南地区にある大学病院。ここが約1年6か月前から樋口さんが働いている職場だ。といっても樋口さんは医師やX線技師などの医療資格を持っているわけではない。それどころか病院の職員ですらなく、雇い主は下請け会社。
「メディカルサービスの会社でしてね。病院内の諸々の業務のアシストをやっているわけです。病院であっても人件費の高い正規雇用はできるだけ少なくしたいんでしょうね」
どんな業務を担っているのかというと、採血した検体の仕分け・搬送・保管、各種医療機器の搬送・管理など。
「無資格なんだから採血なんてできるわけがない。臨床検査技師さんが採った血液を奥の検査室に移送するとか、出てきたデータをパソコンに入力するとか」
病室やICUにポータブル型のレントゲン撮影機や心電図モニター、点滴台、薬剤師が揃えた薬、注射液アンプルなどを届けることもある。
現在の仕事は病院での補助作業だが、元々の仕事は情報処理技術者。ずっとコンピュータの世界で生きてきた。
「大学で学んだのも情報工学でして。就職したのも情報産業だった」
社会人になったのは1995年で、就職先は大手電機メーカー系列のソフトハウス。バブルが弾けて世の中は不景気に突入していたが情報産業は別だった。
「パソコンが一気に普及しOAという言葉が広まった頃でした。当時の情報産業は高度成長期だったんですよ」
入社4年目(1998年)になると、コンピュータの2000年問題がクローズアップされてきた。
「誤作動を起こさないか、プログラムの点検や書き換えをしてくれという依頼が殺到しましたね。わたしだけでなくプログラマーやSEは膨大な仕事量を抱えていました」
無事に西暦2000年を迎えられるまでの2年近くの期間は、ほぼ毎日3時間~4時間残業。月中の15日前後と月末の3日間は終電間際まで働くこともあった。完全週休2日制だったが土曜日も出勤することが当たり前という状態だった。
「月の時間外勤務が100時間超えていたこともあったな。よく倒れなかったと思うよ」
最近は残業代の未払や固定残業代制で実労働分を払ってもらえないことが多々あるが、当時は、残業代は青天井だった。
