閉会式後に起きた“ハプニング”

 お祭り広場で予定されていたイベントは閉会式をもってすべてが終了したが、すべてのパビリオンが閉館した夜7時すぎ、またもやハプニングが起こる。発端は、広場の真ん中に3人の若者が座り込んでギターを弾き始めたことだ。もちろん無許可で、警備員が制止するも、無駄だった。

 たちまちギターを囲んでざっと100人の観客が輪をつくり、肩を組んで「幸せなら手をたたこう」を歌い出した。輪はみるみる広がり、外国パビリオンのコンパニオンも加わって、ついには会場に残っていた何千人もの人々が歌い、踊り、全ゲートが閉まる10時半ぎりぎりまで続いたという(『読売新聞』1970年9月14日付朝刊)。

若者たちが勝手にギターを弾き始めて… ※写真はイメージ ©AFLO

 若者による自発的なイベントは、北大阪急行の万博中央口駅(万博閉幕とともに撤去)でもあり、午後10時頃、駅のアルバイト従業員約40人が、改札口に2列の人垣の上に赤いテープを渡して歓送門をつくると、それをくぐって帰路に就く客に「ありがとう」「さよなら」と声をかけたという。

ADVERTISEMENT

「黄金の顔」の目から発射されていた光線が消えて…

 閉門後の午後11時、太陽の塔の最上部の「黄金の顔」の目から発射されていた光線が消え、183日間にわたって行われた万博はついに幕を閉じたのだった。

 大阪万博の会期中には、大勢の観客が集まったため、食堂が足りず、それをいいことに営業者が勝手にメニューの値段を上げるということも横行したという。食堂や売店の業者のなかにはまた、一方的に従業員の解雇や配置換え、労働条件の改定を行うところもあり、それに反発した一部の従業員が労働組合を結成し、ストライキなどで争うということも起こった。

 先のお祭り広場での若者たちのギター演奏から始まった自然発生的なイベントといい、1970年当時の社会にはまだ管理の行き届かない部分も多く、人々には良くも悪くも、いまよりはるかに自由に振る舞える余地があったのだな、と思わせる。

エキスポランドは閉園、今も残る「太陽の塔」

 閉幕後、会場跡地にはいくつかの施設が残され、万博記念公園として整備された。しかし、残されたものも大半は取り壊され、万博の遊園地施設を引き継いで長らく営業していたエキスポランドも、ジェットコースターの死亡事故が引き金となり、経営が破綻し、2009年に閉園している。

シンボルとして今も残る太陽の塔 ©文藝春秋

 そのなかにあって、大阪日本民芸館や、2010年に「EXPO'70パビリオン」にリニューアルした鉄鋼館はいまなお残る。そして太陽の塔は、万博のあと閉鎖されていた内部空間が2018年に開催当時の展示を復元する形で再公開され、さらに今年8月には国の重要文化財の指定も受け、大阪万博のレガシーとしてますます存在感を示している。

(つづく)

次の記事に続く 「火炎瓶投げ込み事件、放火も発生」「来場者が詰めかけパニックに」万博閉幕まで、何があった? 沖縄海洋博、つくば科学万博を振り返ってみると…