4月から半年にわたって大阪市の夢洲で開催されてきた大阪・関西万博が、明日、10月13日に閉幕する。
日本国内ではこれまでにも5回、国際博覧会が開催されてきた。それらはどのような幕引きを迎えたのか、その後、会場跡地はどうなったのか? #1で取り上げた1970年の大阪万博に続く、沖縄の海洋博、筑波の科学万博では……。(全3回の2回目/続きを読む)
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■1975~76年 国際海洋博覧会(沖縄・本部半島)
大阪万博に続く、日本で2度目の国際博覧会である沖縄国際海洋博覧会(海洋博)の開催が正式に決定したのは1972年5月25日、戦後27年にわたってアメリカの統治下にあった沖縄が日本に返還された10日後のことだった。だが、開催までには紆余曲折があった。
オイルショックで世界的な不況に、中止説まで
準備段階の1973年秋に第一次石油危機が起き、世界的な不況に見舞われると、資材不足や物価高騰の煽りを食って、日本を含む参加各国は展示規模の縮小を余儀なくされる。このあたりの事情は今回の大阪・関西万博とも重なる。
一時はマスコミで開催中止の臆測も流れ、地元や関係者のあいだでは緊張した空気が流れたという。これによって準備に影響があってはいけないと、政府は1973年12月、当初1975年の3月2日~8月31日に予定していた会期をずらし、開幕を7月20日(開会式は前日に設定)、閉幕を年をまたいで1976年1月18日に変更して、中止説を退けた。
会場には沖縄本島の本部半島西端の沿岸が選ばれた。そこには、未来の海上都市のモデルとして建造された海洋博のシンボル・アクアポリスをはじめ、海洋文化館、水族館やイルカショーを目玉とした海洋生物園などの政府出展施設のほか、民間企業・団体や参加各国のパビリオンが設けられた。会期中には南太平洋・ミクロネシアのヤップの島民たちが木製のカヌー「チェチェメニ号」で、会場までの海路3000キロを、星と太陽の位置を頼りにした伝統的な航法により渡航に成功したことも話題を呼ぶ。
だが、入場者数は当初予測された445万3000人を大きく下回り、348万5750人にとどまった。ちなみに一日あたりの入場者数では、最高は8月22日で8万5800人、最低は12月24日の4349人だった。

