科学万博の総入場者数は最終的に2033万4727人に達した。肝心の内容はといえば、外国パビリオンには「人間・居住・環境と科学技術」というテーマに比較的忠実な展示が目立つ一方で、企業が多数出展した国内パビリオンは大型映像を中心としたショーに徹するきらいがあった。そのため外国館からは「テーマに縛られないでいいのなら、もっと違った形の展示もあった」と不満も出たという。

 対する国内館側の言い分は、「大手広告代理店に任せたからこんなことになったのでしょう。代理店が“映像でいく”と宣言した時点で“映像博”は決まったわけです」というものであった(『朝日新聞』および『毎日新聞』1985年9月17日付朝刊)。

 こうして見ていくにつけ、当時の日本人の浮かれぶりを感じずにはいられない。折しも科学万博閉幕の6日後の9月22日には、ドル高是正のため日米英仏独の主要5ヶ国が為替相場への協調介入に合意(プラザ合意)、これにより円高が急速に進み、景気は落ち込んだ。そこで政府が金融緩和策をとったことから、日本はバブルの時代へと突入していくのだった。

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閉幕後パビリオンはすべて取り壊され、残ったものは…

 科学万博の閉幕後、会場から4キロほど離れた場所に建てられた「つくばエキスポセンター」を除いてパビリオンはすべて取り壊された。会場跡地は工業団地として複数の企業に分譲されたが、面積の30%以上を緑地とすることなどが協定で定められ、一帯には自然公園のような景観が実現した(細井聖「博覧会跡地物語」、泉眞也・寺澤勉編著『DISPLAY DESIGNS IN JAPAN 1980-1990 Vol.3 エクスポ&エキジビション』六耀社、1992年)。

科学万博を記念する恒久施設として建設されたつくばエキスポセンター ©AFLO

 跡地のうち5.9haほどは科学万博記念公園になったものの、往時をしのばせるものといえば、日本政府出展のテーマ館のシンボルタワーを縮小した記念塔「科学の門」ぐらいだろうか。科学万博の遺構としてはこのほか、記念公園に残されていた岡本太郎の手になるモニュメント「未来を視る」が、2005年のつくばエクスプレスの開業にともない万博記念公園駅の駅前広場へ移設され、いまもひっそりとたたずむ。

(つづく)

次の記事に続く 万博最終日、何があった? “花持ち帰り”事件、モリゾーとキッコロとの別れに泣き出す子供も…それぞれの会場で見られた“意外な景色”とは