地元の人たちが本土へ抱いていた不信感
しかし、閉会式でサバニを出すため、金城が交渉にあたった地元・本部半島の漁協やその周辺の漁師たちの拒絶反応は強かったという。海洋博の工事のため、本土の人間によって豊かだった自然を破壊され、地元の人たちは不信感を募らせていたのだ。漁師の家を一軒一軒訪ねて説得するなかで、心身ともにすっかり疲れ果てた金城は、海洋博閉幕の翌月、不慮の事故で急逝する。
それでも金城は、沖縄の未来はこれから始まるという意味を込め、海洋博の閉会式でこんな演出も行っていた。それは、要人たちの挨拶が終わり、会期中に掲揚されていた国際博覧会旗と海洋博旗が降納されると、替わって同じポールに沖縄県旗を掲げるというものであった(山田輝子『ウルトラマンを創った男 金城哲夫の生涯』朝日文庫、1997年)。
沖縄への観光客数は本土復帰を機に急増し、海洋博が開催された1975年度は約158万人と、初めて100万人の大台に乗る。翌年度こそ閉幕後の反動不況で約86万人にまで落ち込んだが、その後は再び増加の一途をたどった。海洋博には、観光産業を中心とした沖縄経済の起爆剤にしようという狙いがあり、成果が表れるまでには多少時間がかかったとはいえ、その役割は確実に果たされたといえる。
海洋博の跡地に整備された国営沖縄記念公園の海洋博公園は、いまや年間400万人近くが訪れる沖縄の人気観光スポットの一つだ。海洋博のためにつくられたエキスポビーチは、沖縄でも珍しい礁湖(しょうこ、ラグーン)内にあり、現在もエメラルドビーチの名称で運営されている。全国的に知られる同公園内の沖縄美ら海水族館も、その前身は海洋博の海洋生物園の一施設だった水族館である。
同じく海洋生物園に設けられた「オキちゃん劇場」のイルカショーでは、ミナミバンドウイルカの「オキちゃん」が海洋博以来いまなお現役で活躍中で、一緒にやって来た同種の「ムク」とともに今年、飼育50周年を迎えた。この種のイルカの飼育年数では世界最長記録である。
