その左側に、堤を造った時に使用したと思われる古材が、崩れたまま重なり合った状態で放置されていた。その古材の後ろは、滝から続く崖が断層の走りのようになっていて、上部の張り出した岩の下に低いテラス状の空間があるように見受けられた。薄暗いテラスの辺りは、傷ついた熊が身を隠すには絶好の場所だ。“あの古材の後ろに入っているな”と見極めをつけた父は、そっと大岩のところまで後退した。大岩の手前に立ったとき、古材の中の一本がわずかに動いたのが見えた。銃の安全装置を外した。

ウオーッと怒りの声を上げた熊が…

 父が持ってきた銃は、自動五連の強力なライフル銃であった。弾丸はニッケル弾で、弾の先に銅の部分があり、獲物に命中するとその部分が炸裂して獲物の内部を大きく破壊するようにできていた。それはダムダム弾ともいう、非常に殺傷力のすぐれた種類の銃弾であった。

『羆吼ゆる山』(今野保著、ヤマケイ文庫)

 父は古材の後ろに目を送った。オーバーハング状に張り出した岩の下の暗がりには、うごめくものの影さえ確認できなかった。だが“あの陰に隠れているな”と見透かし、“よしっ、あの古材に一発、弾を撃ちこんでみよう”と決めた父は、肩付けしたウインチェスターの銃口を古材の一本に狙い定め、静かに引き金をしぼり上げた。

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 カーンと無煙火薬特有の乾いた音が山肌にこだまして、古材の一部がパッとはじけ飛んだ。ウオーッと怒りの声を上げた熊が、古材の陰に立ち上がったと見るや、一気に古材の山を跳び越えて父の目前に躍り出た。

 カーンと、2弾目の銃声が走り、その直後、父は大岩の根方を回った。――と、目の前を、突風のような勢いで黒い塊りが走り抜け、川下の小柴の繁みへ消えていった。“川を渡るか、右の斜面を上るか”次の出方を窺いながら、父は銃を腰に引きつけて、熊が消えたボサヤブの方へ近寄っていった。

 そのヤブの外れに太いヤチダモの大木が立っていた。“あのヤチダモのあたりか”父は落葉の緩斜面を足音を忍ばせてゆっくり上っていった。思った通り、ボサヤブを突っ切った熊は、ヤチダモの根元に坐り込んで、時おり体をグラリグラリと揺らしていた。

 熊の真横に立った父は、立ち木の幹に銃身を依託して、熊の前足の付け根に狙点(そてん)を定め、拳下がりの銃把(じゅうは)を握った。距離は20メートルたらず。静かに時が流れ、銃声が峡谷を渡り、山肌深く消えていった。

 熊は坐ったままの姿勢で首をめぐらし、父の方へ目を向けていたが、やがてゆっくりと身を傾けてドサリと横に倒れ、ときどき足を振っていたが、まもなく動かなくなった。近づいて見るまでもなく、熊は完全に息絶えていた。