1970年代後半、明石家さんまが起こした「楽屋ビックバン」
1960年代以前、テレビのお笑い番組が驚異の発展を遂げる前と後では、芸人の楽屋の様子は全く違っていた。かつて落語家や芸人達が待機する寄席や劇場の楽屋はほぼ大部屋であり、現在のテレビ局のような個室中心の楽屋ではなかった。
一つの部屋に大師匠と人気者と中堅、そしてその末席には徒弟制度で鍛えられる弟子達が居並んでいた。雰囲気はワイワイガヤガヤ、ある種の緊張感はあるものの師匠達が時々発する言葉に若手は笑い、時に一言何かを発し、そして教えを乞う……こんな感じだった。
そして東京の楽屋と大阪の楽屋は芸の背景・文化の相違から少々違った様子だった。さらに同じ大阪でも、吉本興業と松竹芸能の楽屋では、ある時期から様子が違っていたという。
松竹芸能の劇場の楽屋は大物喜劇役者の藤山寛美や漫才・女優のミヤコ蝶々、中田ダイマル・ラケットなどの大物漫才師が同時代に活躍、落語では三代目・桂春團治や桂枝雀、時にはのちの人間国宝の桂米朝が居た。そう、今想像すると、この方々が同じ大部屋にいた可能性は大いにあり得るし、それは本当に凄いことである。
一方で吉本興業のなんば花月・うめだ花月の楽屋も同様に、大御所・新人混合の大部屋であった。
しかしある時、その楽屋の様相が一変する。
1970年代後半、明石家さんまがこの吉本の大部屋に出現し、吉本における楽屋ビッグバンを起こしたからだ。
彗星のごとく現れた若き日のさんまは臆すること無く、読書中の大先輩・笑福亭仁鶴や天才漫才師・横山やすし、桂三枝(桂文枝)や中堅・ベテラン・売れっ子・そうでもない芸人達にそれぞれの立ち位置を十分理解した上で縦横無尽に触り放題に触りまくり、楽屋を笑いの渦にした。
その結果、上下関係なく楽屋で愛され人気者になり、「さんま、お茶でもいこか?」「この後、飯でもどや?」と大御所にも頻繁に誘われたという。