奈良の高校で“一番面白いだけの少年”でしかなかった彼が、やがて日本中を笑わせる存在へ――。その飛躍の陰には、ひとりの師匠の存在があった。

 芸人・明石家さんまを育て上げたのは、上方落語界の重鎮・笑福亭松之助。そんな師弟の絆を、長年にわたり公私ともに交流を重ねてきたテレビプロデューサー・吉川圭三氏の新刊『人間・明石家さんま』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む

明石家さんまを語るうえで、欠かせない「師匠」の存在とは? (写真:時事通信)

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「賢い奴はすぐやめる」

 事実、さんまの楽屋は本番の収録を上回るほど面白い。それはカメラが回っていないからコンプライアンスや下ネタなどに制限がない、ということではない。楽屋でも喋りの躍動感というか、ライブ感がケタ違いなのだ。これは、彼の芸人としての「出自」も大きく影響しているのかもしれない。

 デビュー直後のさんまはステージの上よりもまず「楽屋」で名を馳せた。

 奈良県立奈良商業高等学校(現・奈良朱雀高等学校)で、「一番面白い男」だった杉本高文(のちの明石家さんま)は、関西の寄席や劇場で数々の落語家・芸人を見ているうちになんば花月で笑福亭松之助の高座に出会い、その名調子とセンスに衝撃を受ける。そして、1973年秋、高校3年生・18歳で松之助に弟子入りを志願。

「弟子にしてくれませんか?」と頭を下げる高文に、松之助は「なんでわしの弟子になろうと思った?」と尋ねる。

「いや、師匠はセンスありますんで」──高文が上から目線の言葉を放ったその瞬間、目の前の不敵な若者に松之助は大笑いし、「この世界は簡単にメシ食べられへんで」と言いつつ、入門を許したという。

明石家さんまの師匠で落語家の笑福亭松之助さん(画像:「草や木のように生きられたら」(ヨシモトブックス)Amazonページより)

 翌1974年2月には、高校卒業を待たずに弟子入り修業を開始。売れっ子になる前から、楽屋で喋りまくるさんまの面白さは芸人たちの語り草となっていたという。同時代を知る島田紳助、オール巨人といったのちの超一流芸人たちが、その爆発的なスピードと面白さには舌を巻いたのは前述の通り。

 人前では普通おおっぴらにしないような恋愛の恥ずかしい話、仲間たちとの内輪の失敗談、どんなことでも包み隠さずネタにした。そういう「雑談芸」ともいうべきものを、初めてエンターテインメントに昇華させたのが明石家さんまなのだ。

 さんまは自らの「雑談芸」についてこう語っている。

「うちの師匠(笑福亭松之助)が、『さんま、雑談を芸に出来たらすごいぞ』と口癖のようにおっしゃってて、オレはいつかそれをやってやろうと思い続けてたんですね。“内輪ネタ”も意識的に、積極的に扱いました」(『クイック・ジャパンVol.63』2005年12月)

「俺が楽屋で紳助とか巨人らとしゃべってるのを、横で他の弟子っ子らが聞いてて、“この世界は凄い奴がいる、勝てない“っていうので、3か月くらい経ったら半分ぐらいやめてましたね。賢い奴はすぐやめるんですよ」(「MBSヤングタウン」2004年6月12日)