笑福亭松之助師匠はどんな人だったのか?
少しだけ、松之助師匠についてご説明しておこう。1925年、日本三大遊郭の一つ神戸市の福原近くの新開地で産声をあげた。尋常高等小学校卒業後に三菱電機の潜水艦設計課に養成工として14歳で就職するが、正社員との理由なき格差に苦しんでいたという。
1941年太平洋戦争開戦。アメリカ軍による日本本土の空襲は神戸市にも容赦なく及び、壊滅的被害をもたらした。
戦後、五代目・笑福亭松鶴に弟子入り。戦争の不条理の記憶を消し去るために古今東西の名著を読んだという。やがて師匠の死後、松之助は四代目・桂米團治の所に居候し教えを乞う。桂米團治師匠による酒を飲みながらの教えを松之助は「醒睡抄」として書き止めている。以下その一部の抜粋である。
一、ただ看板だけ大きくして金を儲けるだけという、そんな考えは最も卑しい芸人根性といわねばならない。何故ならば、これほど非生産的な職業はない。
二、人生を愉快に過ごすと言うことは、真面目と言うことである。壁に向かって、落語の稽古をするとき、真面目に熱中してやれば、何もかも忘れて法悦に浸ることができる。これほど愉快なことはないではないか。
三、一つの人生観をもってすすむ、放蕩三昧に暮らすのも盗っ人をするのも、一つの人生観をもっておれば、これも一つの生き方といえよう。しかるに、立派に世の中を過ごそうとせず、その反対にもなりきれず、何の考えもなしに過ごしている者こそ、ホントウの滓であり、この世に用のない人間だ。
……この文章こそ、テレビ画面の中でいつも誰よりも一生懸命なタレント・明石家さんまと松之助師匠の繋がりを示す原点だと思うのだがいかがだろうか。
松之助師匠がさんまの奈良の実家を訪れた際、さんまの父にこう言われた。
「さんまは師匠が死ねといったら、すぐ死にますよ」
師匠と弟子の関係としては尋常でない。しかし、こうと決めたら徹底的に突き進む明石家さんまは、松之助を“生涯の師匠”と決めたのだからこの言葉にも納得がゆく。
ある日、松之助師匠はこう語った。
「彼(さんま)が皆様から人気をいただいているのは、彼がいつも一生懸命にやっているからでしょう。『今・ここ』を真剣に生きているのが好感を得ているのだと、私は思っています」
またある日、さんまは松之助師匠の息子にこう言った。
「自分が歳をとったら、師匠の家しか帰るところはない」
デビュー当時、評論家から「軽薄な芸人」と呼ばれ、事実そう扱われていたさんまは自らをトレーニングし、師匠の言葉を噛み締めながら唯一無二の芸人になった。
頑固ながら我が道を行くさんまの根底には、読書家の松之助師匠から毎週届く手紙によって醸成されたある種の思索の跡と哲学があるのではないかと思う。