「テーマはスパイスに決まったのですが、原稿がなかなか書き進められなくて。それで、ZINE(ジン=個人や書店がつくる自主製作出版物)として、1巻ごとに1種類のスパイスを取り上げて、少しずつ書きました」
そう語るのは、画家で装丁家の矢萩多聞さん。スパイス愛全開で作られたZINE『お調子者のスパイス生活』シリーズ全5巻に書き下ろしの「カルダモン」の章を加えたエッセイ本『ぼくのスパイス宇宙』を上梓した。
スパイスとの出会いは、9歳の頃から毎年家族で旅行したインドとネパール。
「父のインド一人旅の話を聞いて僕も母も行きたくなって。毎日少しずつ飛行機代を貯めて数週間旅行して、帰って1週間も経つとまた行きたくなる。そして1年お金を貯めて毎年春に旅行して、の繰り返しでした」
学校の先生と馬が合わず、中学1年の3学期から不登校になり、絵に没頭した。
「週1回、先生が家に様子を見に来るんです。その時に、セールで買った500円の額縁に自分の絵を入れて『先生、これ3000円で買ってください』『じゃあ買います』って。先生は応援すれば学校に来るようになると期待したのかもしれないけど、『これで稼げるなら学校行かなくていいや』って味を占めてしまった(笑)」
数年後、南インドに家を借りてペン画を描き、半年ごとに日本に戻って個展で絵を売って生計を立てていた矢萩さん。インドと日本を往復する生活が続いた。その豊富な経験を基にしたエッセイは実に柔軟だ。
「90年代、インドにペットブームが来たんです。野良犬とはまったく扱いが違う。町の人は犬にお洒落な英語の名前を付けて飼い始めたけど、餌はドッグフードじゃなくて辛いインド料理の残飯なんです。『うちの子も食べてるものをなんで犬にあげちゃダメなの?』って。新しいものに飛びつくけど、染みついた生活の発想は簡単には変わらない」
今は京都に住んでいるが、ふとした瞬間にインドを感じるのだという。
「スパイスの匂い、生ごみと排気ガスが混ざった匂いなどを嗅いだ時、『これインドの匂いだ』と過去の記憶が蘇る。漠然と過ごしていた過去が今になって意味を持つ。すごく昔のことと最近のことがごちゃ混ぜになって語りとして出てくる。時間の流れが、過去から現在、未来への一直線じゃなくて、蚊取り線香のようにぐるぐる回っている。いまの自分のなかに遠い過去の自分が入れ子になっている」
エッセイにも、インドと日本の話が年月ごちゃ混ぜで登場する。そして、巻末には、インド料理だけでなくお好み焼きやジャーマンポテトなど日常的な料理にスパイスを活用できるレシピがイラストとともに紹介されている。
「本来、スパイスはいろんな国を旅してやってきたんです。例えば、現代のインド料理で多く使われる唐辛子も、元はイギリスの植民地時代に南米から伝来したもの。未知の香りとともに外から持ち込まれたものを使って、それぞれの風土にあった料理が生まれる。そこに人類のダイナミズムを、その歴史の中に生きる自分を感じるんです」
レシピのページには、大さじ1杯といった分量が登場しない。あるのは「ターメリック●」「コリアンダーシード●●」といった大まかな量を示す黒丸のみ。
「インドではおなじ料理でも地域や家庭によって作り方が変わります。普段料理をあまりしない人も、スパイスを使って試行錯誤してその人の味を見つけてほしい。そうしたらまた違う世界が見えるんじゃないかな」
やはぎたもん/1980年、横浜生まれ。9歳から毎年インド、ネパールを旅する。中学1年から学校に行かなくなり、ペン画を描きはじめる。2002年から装丁をはじめ、これまで700冊以上の本を手がける。著書に『本とはたらく』『美しいってなんだろう?』など。

