『出口 中絶のための1200kmの旅』(B.キャロット 著/川野夏実 訳)

『出口 中絶のための1200kmの旅』は、望まない妊娠をした29歳の独身女性マグダが安全に中絶を行うため、唯一の理解者であり批判者でもある姉のオリビアと交替で車を運転し、ポーランドからオランダまで一昼夜走り続けて移動する姿を追った物語だ。

 本書の特徴の一つは、グラフィック・ノベル(コマ割りで表現された読み物で、従来よりもストーリー重視のコミック)であること。しかも全頁カラーで、色彩そのものが物語の一部になっている。日常は赤やオレンジなどの暖色、家族や生徒(マグダは小学校教師)、趣味のタップダンスなど守りたいものを描く時には黄色が強く輝く。揺れる心、はたまた固い意志は青などの寒色、そしてポーランドの厳しい現実は黒――。これらは単なる雰囲気づけではない。色の移ろいによって身体感覚を直感的に伝え、読む者の感情を揺さぶり、判断の重みを追体験させる仕掛けなのだ。

 次に距離。1200kmとは、日本で言えば函館~広島を移動するようなものだ。というのもマグダが暮らすポーランドは、ヨーロッパでも中絶に対して特に規制が厳しい国。誰にも知られずに中絶手術を受けるためには、どうしてもオランダまで行く必要があった。この距離そのものが「権利への遠さ」を突きつける。

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 そして、核心は「沈黙」だ。作中でマグダはなぜ中絶を選ぶのかを最後まで明かさない。生真面目なマグダとは真逆の性格の姉から意地悪なことを言われても、「理由」を語らない。その沈黙が示すのは、中絶とは〈第三者が納得できる事情〉がないと許されないものではなく、説明不要の権利だということだ! 日本の読者にとって、この仕掛けは強烈だろう。

 私たちは「(出産しても育てていくのが)経済的に無理だから」あるいは「同意のない行為の結果だから」などといった物語を聞きたがってしまう。しかしそれこそが、社会が女性に「理由を差し出す義務」を押しつけてきた証だ。本書は、その眼差しを私たち自身に突き返す。

 さらに制度的な隔たりにも驚くかもしれない。マグダは900ユーロ(約16万円)の中期中絶料金が高いと嘆くが、日本では破格の額だ。加えて、経口中絶薬はようやく承認されたばかりで使用は限定的、配偶者同意の要件も残り、女性の身体を縛り続けている。ポーランドでは距離が、日本では制度の壁が中絶を妨げる。形は違っても権利が遠ざけられている点は共通だ。

 グラフィック・ノベルには元々社会問題を訴える作品が多いそうで、本書もアートでありながらプロテストの書でもある。この作品は、沈黙と色彩を武器に根源的な問いを投げかける。「なぜ彼女は中絶を選ぶのか?」と知りたくなるその気持ちを自覚した瞬間、読者はすでに物語の当事者となっている。静かながら強い力をもつ一冊だ。

B.Carrot/1985年エルサレム生まれ。オランダ在住。移民や国境政策、フェミニズム、パレスチナの自由を求める闘争などをテーマに作品を発表。2024年に2作目のグラフィック・ノベルとして刊行された本書は、世界数カ国語に翻訳されている。
 

つかはらくみ/1961年生まれ。中絶問題研究家。(一社)RHRリテラシー研究所代表理事。新著は『産む自由/産まない自由』。

出口:中絶のための1200kmの旅

B.キャロット

花伝社

2025年8月25日 発売