「践祚」と「即位」は異なる
こうした混乱の背景には、戦後憲法の下、政教分離が強く意識されたこともありました。宮内庁や内閣法制局はできるだけ宗教色を薄めようとして、伝統的な神道の形式を過度に自粛しようとした。
たとえば、天皇が崩御されてすぐに、「剣璽(けんじ)等承継の儀」というものが行われました。これは元来、天皇の位が空位にならないよう、先帝の崩御後、すぐに行う「践祚(せんそ)」の儀式です。三種の神器のうち剣と曲玉(まがたま)、そして御璽、国璽の印章を新しい天皇にお渡しする儀式なのですが、これはモーニングコートで行われました。
何故なら、この儀式は皇族、宮内庁長官だけではなく、総理大臣、最高裁長官、衆参両院議長という三権の長も参列する国家の儀式だというわけです。そもそも「践祚」という言葉には宗教的な意味があるといわれ、すべて「即位の儀式」とされてしまいました。しかし、本来は践祚と即位は違う。
即位とは、喪が明けて、内外に御代替わりを宣明されるハレの儀式です。それに対して、践祚はあくまで喪中にあって、皇祖天照大神の前で天皇の位を継ぐ行事なのです。
神様に対する気持ち
儀式にはひとつひとつ意味があり、それにふさわしい形がある。だから宗教色を薄めると言いますが、もともと皇室の儀式には、これは国のもの、これは皇室の私的なものという区別などありません。
私はやみくもに古い形にこだわるつもりもないのですが、やっぱり気持ちがなくなると形にあらわれると思うのです。御装束姿での儀式はたしかに大変なんです。皇后陛下など潔斎(けっさい・身を清めること)して、頭を結い上げ、装束を身につけるのに最低でも二時間くらいかかります。しかし、神様の前に出るのには、自ずとふさわしい姿が決まってくる。
たとえば神社のお祭りに浴衣がけで出かけるのは構いませんが、御本殿に上がって拝礼するのにはふさわしくない。寝間着姿ですから、失礼にあたります。それを、浴衣でもいいんじゃないかとなったら、実は、神様に対する気持ちが変わってしまっているんです。