この世に2部しか存在しない大正天皇の大喪記録
貞明皇后の記録を整理し終えると、次はいよいよ大正天皇の大喪記録です。和綴じの冊子100冊以上にもなる、墨で書かれた大部の記録でした。
実はこの大喪記録は、この世に2部しか存在しません。1部は宮内庁、1部は内閣に置かれている。当時、私のような下っ端では借りることもできない。そこで掌典職の祭事課長をされていた前田利信さんにお願いしたら、「勉強するなら借りてあげよう」というので、ようやく目にすることが出来たのです。この前田さんは旧華族で富山のお殿様でした。
これはさすがに家に持ち帰れませんから、上司のいないときや当直のときに、儀式の手順や必要なものを書き写す。しかもただ写すだけではなくて、ちゃんと後で利用できるように、内容を理解しないといけないから、ものすごく時間がかかるんです。そして翌58年からは、國學院大學の先生や神社本庁の人たちと月1回「即位・大喪の勉強会」を開きました。このとき役に立ったのは、神保町の古書店でたまたま見つけた葬儀の際の写真帳でした。
儀式の「気持ち」と「形」
準備作業が公式に始まったのは、昭和62年の秋だったと記憶しています。
大正天皇のときと一番違ったのは、当時は、「大喪使」という専従の組織が作られていたんです。即位の大礼でも「大礼使」ができる。ところが、今回はそれができなかった。というよりも、政府にしろ宮内庁にしろ、別組織を作るということ自体考えていなかったと思います。
だから宮内庁や掌典職などが通常の業務をこなしつつ、大喪、大礼を準備し執り行うという体制になってしまったのですが、これが間違いでした。とても片手間にできるような仕事ではありません。儀式、装束、作法、設営の監督、数千に及ぶ物品調達、それからその全ての予算案を作成しなければならない。それだけ大規模なプロジェクトなのです。
たとえば葬儀を担当するのは祭官といいますが、祭官長1人、祭官副長2人の下に、祭官と祭官補がそれぞれ18人で担当します。これは大正天皇の前例にのっとったものなのですが、何故それだけの人数が必要なのか説明しなくてはならない。予算に関わってきますからね。しかし、これには合理的な理由があるんです。葬儀の際、祭官は昭和天皇に24時間祗候しなければなりませんが、当然、交代制でやるしかない。3交代制として、6人でひとつの組を作るのです。祭官と祭官補は必ずセットですから、あわせて36人。これ以上減らしたら、とても身体がもちません。
こうして祭官の人数が決まると、装束の数、足袋の数などをひとつひとつ決めていくわけです。
大喪の礼で大きな問題となったのは、装束を着るかどうかでした。ある宮内庁の幹部が大反対したのです。大喪の儀は世界中に衛星中継される、そこに時代錯誤の装束姿が映ったら、日本の恥さらしだと。これは大変なことになった、と思いましたね。大喪の礼が洋装ならば、即位も装束ではできない。古式にのっとった儀式が行えなくなってしまう。
結局、各方面で協議を重ねた結果、装束で行うことになったのですが、終わってみると、その反対していた幹部が「海外からも非常に評判が良かった。さすがは日本の長い伝統だ」と言う(笑)。役人というものはすごいなと思いました。