報道担当の私に届いた、宮内庁内からの苦情
報道担当の私には、庁内から苦情がひっきりなしに届きました。たとえば、テレビ局の電源車の油が落ちて、その箇所の舗装が傷む、宮内庁庁舎の電源を勝手に使っている、芝生の中にずかずか入り込む人がいる……。人が増えれば、当たり前のことですが、弁当の空箱や新聞といった日用品のゴミの量も激増します。そのために宮内記者会費で臨時の回収職員を雇ってもらいました。
マスコミ各社の記者やスタッフも連日の泊まり込みですから、疲れて、廊下などで横になる人もいました。天気のいい日なんかには、中継車やハイヤーの上に毛布や寝袋、布団を干したり。しょうがないから、「廊下で寝ないでください」とか「庁舎前では布団を干さないでください」といったやり取りを、大真面目でやっていました。
強烈に記憶に残っているのは、お見舞いの記帳のために、現在のスポーツ庁長官の鈴木大地さんが宮内庁に来た時のことです。ソウルオリンピックで金メダルを取った直後でしたからまさに時の人で、マスコミの報道の過熱ぶりは大変なものでした。尋常ではない数のカメラが押し合いへし合いになり、あちこちから怒声が飛び交っている。こちらも必死で応酬しながら、カメラをかき分けて、鈴木さんをガードし、車まで送りました。宮内庁職員にこんな仕事があったとは、と思いましたね。
私たち報道係は、9月のはじめの1週間こそ、遠距離通勤者は泊まり込みでしたが、長丁場に備えてきちんと態勢を整えなくてはならないと思い、泊まりをシフト制にし、交代で24時間、誰かが勤務している状態をつくりました。そして、昭和64年の年明けを迎えたのです。
「前例」を作った昭和の大礼
1月7日、昭和天皇が崩御されてからは、正直、場当たり的な対応に追われていた、というのが実感です。我々宮内庁の職員も、実際の皇室の儀式については、ほとんど何も知らないに等しい。ましてや大喪の礼、即位の礼などは、誰も経験したことがないわけです。担当者から「この儀式はこういうもので、こういうことをします」と説明を聞きながら、一方でマスコミから「ここでカメラを回したい」とか「こういう取材をしたい」といった要望を受ける。いくら混乱しようが、時間がくれば始まるし、同様に儀式が終われば、そこで終わりなんだ、と腹をくくって、とにかく目の前の対応に終始していました。
しかし、苦労はしましたが、メディアの存在は皇室にとって、そして国民にとって欠かせないものだという意識はありました。ですから、儀式の際も、報道陣に良いポジションを確保しようと、現場の担当者とやりあったこともあります。多くの国民、さらには世界中の人々がこのカメラを通じて、皇室の伝統を知るんだ、という思いがあったのです。
報道以外の場でも混乱や問題は多々ありました。象徴天皇制度という憲法下では初めての御代替わりでしたから、特に皇室儀式の宗教的な面と法律面での折り合いをいかにつけるかが大問題だったのです。
たとえば大喪の礼と、葬場殿の儀の分離です。大喪の礼は国家によるもの、葬場殿の儀は皇室によるものというように区分けした。これも政教分離の建前を守るためで、宮内庁だけではなく、官邸や内閣法制局とも意見調整が行われました。そうした調整の結果、幕を引いて鳥居を置いて、葬場殿の儀を行った後に、鳥居も幕も外して、改めて大喪の礼を行うというようにして、国家と皇室の儀式を分けたのです。いわば苦肉の策ですが、とにかく前例のないなかで、ひとつの「前例」を作ったわけです。