追悼と祝賀が連続する「代替わり」。宮内庁の報道担当として、昭和天皇の大喪の礼と今上天皇の即位の礼を体験した山下晋司氏が、当時の内実を明かす(出典:「文藝春秋SPECIAL」2017年季刊冬号)。
◆ ◆ ◆
後にも先にも経験したことのない大混乱の連続
私は平成13(2001)年に退職するまで、23年間、宮内庁に勤務していました。そのうち7年間、報道担当を務めましたが、なかでも記憶に残っているのは、昭和天皇の大喪の礼、今上天皇の即位の礼です。まさに後にも先にも経験したことのない大混乱の連続でしたが、メディアと皇室の関係を深く考えさせられる機会でもありました。
私が長官官房総務課報道係、今でいう報道室への異動を命じられたのは昭和62(1987)年のことでした。この年の9月に昭和天皇が手術をなされるのですが、緊急事態に備えてのことだとは分かっていました。しかし、前の部署の引継ぎなどもあり、実際に配属されたのは翌63年4月1日のことでした。
当時の報道係は、小さな所帯でした。報道専門官という課長補佐が1人、2つの係に係長が1人ずつ、係員が5人のわずか8人で、宮内庁にまつわる報道関係を取り仕切るのです。
私が異動してまもなく、療養されていた昭和天皇が宮殿行事に復帰されました。そして9月19日に吐血されると、マスコミ各社が緊急態勢となり、どんどん人員を増員してきました。特にそれまで社会部などで事件取材を担当していた、いわゆるエース記者たちが投入され、どちらかというとのんびりしていた記者クラブの空気が変わっていったのを覚えています。
記者会の通行証発行数が1000人を超えた
通常、皇室報道を担当する記者たちは宮内記者会に属しています。私が配属された時点では、新聞、テレビなど15社で、常駐している記者は27人。およそ1社あたり2人ですが、そもそも記者会室には机が27しか入りませんでした。ですから、9月以降、宮内記者会に登録される記者の数がどんどん増えていくのですが、記者会室で原稿を書こうにも机が足りないのです。
ただ、この記者会に登録さえしておけば、通行証がもらえて当時は皇居への出入りが基本的には自由になりました。そのため通行証の発行数は激増し、63年の暮れにはなんと1000人を超えたのです。宮内庁としてもどこで線引きしていいのか判断できませんでした。特に多かったのはテレビ局です。記者だけでなく、カメラマン、照明、音響などの技術関係の人まで、1社で100人近く登録していた局もありました。
そうなると、もはや宮内庁周辺がマスコミ関係者に占拠されてしまったような状態です。ご容態が悪化したという情報が入り、急いで宮内庁前に駆けつけた取材班がそのままそこに居座り続けたのですから、秩序も何もありません。いつ何が起きるかわからないので、中継カメラに繋いであるコードも抜けないし、移動している隙に他社に場所をとられてしまうかもしれないというので、そのままの状態で10月、11月と時が過ぎていきました。