アントニオ猪木の死去から約3年。「プロレスは最強の格闘技である」という信念のもと、猪木は所属選手に本物の強さを求め続けた。7人の元レスラーが「“過激なプロレス”の舞台裏」を語り尽くした書籍『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』(宝島社)より、猪木の運転手を務めていた栗栖正伸とその妻・政代夫人による証言を抜粋してお届けする。(全3回の1回目/続きを読む)
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「運転手兼ボディガード」としての自覚
――栗栖さんが猪木さんの運転手をやってた時は、「運転手兼ボディガードだ」という気持ちもありましたか?
栗栖 そりゃそうでしょ。それは当然。やって当たり前だし、「猪木さんのためだったら」ってなるもん。俺としてはやり通せてよかったっていう感覚だよ。だって猪木さんはそれだけの価値がある人だったから。
――体を張るくらいの価値があったと。
栗栖 だからべつに悔いも残らないし、俺は猪木さんのために「よっしゃ、一生懸命にやったろ!」っていう頭があったから。その気持ちは今もありますよ。残念ながら、もう猪木さんはいないけどね。
「外国に行ってる間だけは気が休まる」
――でも、あの70年代の新日本道場で新人選手としてトレーニングしながら、猪木さんが何か用があればすぐにクルマで駆けつけて運転手をするって、相当ハードだったんじゃないですか?
栗栖 まあ、ハードといえばハードだよね。べつに変なあれはないけどさ。
政代夫人 当時は今みたいにナビがないから、前の日に「明日はここだ」って猪木さんから言われた場所を地図でじっと見てたよね。
栗栖 地図を見るのは前の日だけね。俺は方向音痴だからさ(笑)。
政代夫人 シリーズ中もシリーズが終わってからも、猪木さんが何か用がある時は常にクルマで送り届けることをしてたんですよ。ただ、あの当時、猪木さんはシリーズが終わったらよく外国に行ってたじゃないですか。猪木さんが外国に行ってる間だけは気が休まるので、空港まで送り届けたあと帰宅すると、「ああ、行ったあ」って感じでね。
――やっぱり気が休まるのは、猪木さんが海外に行ってる時だけだったんですね。
栗栖 でも、よくしてもらったよ。俺はずっと一緒だったからさ。猪木さんは俺には本音でしゃべってくれたし。他の人にはオブラートに包んでしゃべったりするけど、俺には単刀直入のしゃべり方をするんだもん。だからどっちがいいのか悪いのかは知らないけどさ。そういう感じだったね。

