アントニオ猪木の死去から約3年。「プロレスは最強の格闘技である」という信念のもと、猪木は所属選手に本物の強さを求め続けた。7人の元レスラーが「“過激なプロレス”の舞台裏」を語り尽くした書籍『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』(宝島社)より、新倉史祐による証言を抜粋してお届けする。(全3回の2回目/続きを読む)
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「猪木さんは練習に対する姿勢も別格でした」
新倉たちが若手時代を過ごした80年代初頭の新日本道場は、山本小鉄が鬼コーチとして君臨し、小鉄が不在の時は木戸修が代理を務めて練習を仕切っていた。アントニオ猪木、坂口征二といったトップレスラーも一緒に道場で汗を流し、猪木がいる時はやはり「極めっこ」と呼ばれるグラウンドのスパーリングに多くの時間が割かれたという。
「当時の道場の一日の基本メニューはこんな具合でしたね。道場に隣接する合宿所で生活する俺たち若手は、朝8時過ぎに起床して清掃をする。掃き掃除をする者、掃除機をかける者、トイレ掃除をする者、外で水撒きをする者など、それぞれ分担して行う。9時くらいからぽつぽつと先輩レスラーたちが道場に姿を現して、10時前に全員集合。その時間になると猪木さんもやってくる。
柔軟とかの準備運動をやり終えると、ヒンズースクワットから練習が始める。まずは1000回やって、続けてジャンピングスクワットを500回。それからウェイトなど一通りの基礎トレーニングを1時間から1時間半かけてやって、その時点で夏場なんかは汗で床に水溜りができてたね。道場にはクーラーが入ってなくて(スイッチが入れられていないのではなく、エアコンが備えつけられていなかった)、プレハブ造りの道場内の室温は40℃はあったね。だからほとんどの選手はパンツ一丁姿で練習をしていたんだけど、猪木さんだけは長袖シャツと長ズボンを練習の最後まで着たままで、『この道場でトレーニングをしたら、それだけでいいスタミナ養成になるぞ』ってよく言ってましたね(笑)。猪木さんはスターであり、社長なんだけど、練習に対する姿勢も別格でしたよ。
だけど俺たち若手はそんな余裕なんかないから、あまりの暑さで、しかも練習中に水分を摂ることも許されない時代だったから、意識を失いかけて床に突っ伏してしまうことなんてざらだったね。そうすると外に引っ張り出されて、ホースの水を頭からぶっかけられる。その水を浴びている時は『これ、ご褒美だな』って、冷たくて、気持ちよくて、うれしかった。で、意識がはっきり戻るとまた道場に戻って練習だから、つかの間のご褒美に過ぎないんだけどね」
