頭を丸めた17歳の青年は、玄関先で見送る両親に「5年やって、ダメだったら帰ってくる」と告げて、家を飛び出していった。2012年1月。甲子園球場から約500km離れた長崎県島原市で生まれた松田遼馬のプロ野球人生は、悲壮な決意とともに始まった。
前年のドラフトで阪神から5位指名を受けた。「一番下位ですし、1軍で投げることなんて高校生の自分に全く想像できなかった。ダメだったら、長崎に帰って来たら良いと思ってました」。5年を「期限」とした本人の言葉に偽りはない。センバツで甲子園のマウンドに上がった経験はあっても、例えば自分が伝統の一戦で阿部慎之助を抑えるイメージは全く湧かなかった。期待どころか、不安、恐怖が渦巻いていた。
その右腕にプロの舞台でも色あせることのない魅力が詰まっていたことを、本人はまだ気づいていなかったのだろう。武器は高校時代ですでに最速148キロをマークしていた重みのある直球。通用する自信は無くても「まっすぐが持ち味なので、それで押していきたい」と貫くスタイルだけは決めていた。
「次代の守護神」聖地に突然現れた19歳の剛腕
脚光を浴びるのは早かった。高卒1年目はじっくりファームで経験を積み、2年目の13年には早くも1軍キャンプに抜てきされ、7月13日のDeNA戦で1軍初登板。いきなり自己最速149キロをマークし1回1奪三振無失点の快投デビューを、スポーツニッポン大阪版は「聖地に維新の風、剛腕デビュー」と1面で掲載した。
以降は初登板から18イニング連続無失点を記録。何より、直球が通用した。マウンドで飛び跳ねるような躍動感あるフォームから繰り出すボールに強打者たちのバットは空を切る。前年には、守護神に君臨してきた藤川球児がメジャー挑戦で退団した経緯も重なって、多くのファンが聖地に突然現れた19歳の剛腕に「次代の守護神」の夢を描き始めていた。
5年で帰郷どころか、3年で飛躍……そんな勢いで階段を駆け上がっていた遼馬の成長曲線を狂わせたのが、度重なる故障だった。3年目の14年は右肘痛を発症して春季キャンプを離脱。13年から2年連続でキャンプ未完走に終わってしまった。8日が誕生日の2月はまさに鬼門。「もう悪い思い出しか浮かばないですよ」と自虐的に笑うしかなかった。
故障に泣いたプロ6年間
2度あることは……3度目の悲劇は16年。2月4日の第1クール4日目の夜、先輩左腕の高宮和也と豚しゃぶを食べて宿舎に戻り、ベッドに入った瞬間、突然、右肩に激痛が走った。上下、左右、グルグルと肩を回してみても、痛みは和らがない。「またか……もう離脱したくないのに。夢であって欲しい……」。夜が明けて「痛くても、投げられれば大丈夫」とキャッチボールを行おうとした時、握っていたはずの白球が、ボトリと地面に落ちた。痛みで右手に力が入らなくなっていた。
「ボールが落ちたんです。野球をやってきて初めてで、自分でもびっくりしました。もう無理だと」。病院で「右肩関節炎」と診断され、沖縄から帰阪する飛行機に乗った。
昨年までのプロ6年間で15年の30試合がプロ最多登板。シーズン通して1軍に定着することはできず、今季は夏を迎えても1軍から声はかからなかった。そして、7月26日、「声」がかかったのは他球団からだった。飯田優也との交換トレードでソフトバンクへの移籍が決定。期せずして、地元・九州に里帰りすることになった。