その後は紆余曲折あり、実際に住み込み女中としてやって来たのがセツだった。婚期を逃したバツイチだが、この頃はまだ23歳。中年女性というには若すぎる。紹介者のツネもセツのことは「お嬢様」と呼んでいた。セツの出自や年齢、経歴などはハーンも事前に聞いていただろう。
住み込み女中が「中年の婦人」から「20歳代の若い士族のお嬢様」に……彼もまだ40歳、枯れるような年齢ではない。若い娘に変更になったことで、心がときめいたにちがいない。相手が妾になるのを覚悟していることも、ツネから聞かされていただろう。恋愛スキルの低い者でも、容易に越せそうな低いハードルになっている。ひとつ屋根の下で暮らしていれば、何が起きても不思議ではない。
恋愛対象だったから容姿にこだわったのか
恋愛対象となればビジュアルは重視するだろう。何でもいいというわけにはいかない。だから思い描いていた“士族の娘”とはイメージのあわないセツを雇うことに難色を示し、不機嫌になったのではないだろうか。
また、教養のある士族の娘ならば会話も弾んで楽しいだろう。士族がどんな立ち振る舞いをするか、武士の生活文化はどんなものか等々、一緒に暮らせば様々なことを知ることができる。士族の娘との同居は、そういった純粋な探究心を満足させることにもなる。そう考えれば、譲れない条件になってくる。
ハーンは嘘が大嫌いで、裏切りは絶対に許せない。ふだんは物静かで穏やかな彼が、嘘をつかれるとたちまち豹変し、激昂(げっこう)して怒鳴りだす。この時もそうだった。ツネに向かって「士族ナイ」「ホテルノ下女ト同ジ」「私ダマス」などと酷いカタコトの日本語でののしり、早く連れて帰るように要求していた。
狭い家の中だけにやり取りはセツにも聞こえていたはず。自分の容姿を悪く言われて、さぞ嫌な思いをしたことだろう。
とりあえずはツネが取りなしてくれたが、いつハーンの気が変わって追い出されるかわからない。家族を養うため覚悟を決めて来たのだ。いまさら家には帰れない。容姿が理由で追いだされたとあっては女のプライドにもかかわる。何としても避けねばならず、これ以上ハーンの機嫌をそこなわぬよう細心の注意を払う。この頃が彼女も一番辛く厳しい時だった。