一色vs長岡。両家の長い歴史と格闘した6年間

――作品紹介には「取材・執筆6年超」と書かれ、巻末の主要参考文献だけでも膨大な史料が挙げられています。

和田:史料については片っ端から読んでいった感じで、確かに多かったですね(笑)。ただ、今回これだけ長い取材期間を設けたのは、一色家も室町時代のはじまりから幕府の重臣になるような家ですし、細川家(長岡家)も同じように長い歴史がある者同士の戦いです。だからこそ、最初の方から遡って、この二つの家を調べていかなければいけない。従って史料も増えたということだと思います。

――こうした室町幕府の頂点、将軍・足利義昭さえ京から追い出したのが織田信長です。信長が登場する小説は数多ありますが、彼が天正9年(1581年)に京都で行った、大規模な観兵式・軍事パレード〈馬揃え〉も、本作のハイライトとして読み応えがありました。

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和田:一色五郎の行動を全部拾っていくつもりで書いていくと、馬揃えの場面も史料に登場するんです。もっとも、そこには彼が幕府の重臣たちの一人として参加したとしか書かれていません。ただ、どのあたりに馬場があって、どのくらいの広さで、どういう雰囲気でやっていたのかといったことは、意外といろいろなものに記録が残っている。ちゃんとした舞台をしっかり調べて、「馬揃えとはこういうものだったんだ」という場を固めてから、上手に嘘をつくというような形で、信長、そして五郎と忠興の姿に迫りました。

――しかし、この盛大な馬揃えから1年余りの天正10年(1582年)6月2日、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、ここから一色、長岡両家の関係も、刻々変化することになります。

和田:そうですね。特に長岡藤孝は過去作品にもいろいろと登場するのですが、本能寺の変において、彼が何を考えていたのかについて、これまであまり深く考えたことがありませんでした。でも、今回しっかり彼の人生も辿っていくと、まず15代将軍となる足利義昭を救出するところからはじまり、何とか義昭を信長に渡りをつけて上洛まで果たした。その後、両者が不和に陥ると、信長側に付いてここまで頑張ってきたのに「最終的にこれか!」と、愕然としたことでしょう。

 しかも、かつての明智光秀は藤孝と義昭が頼った、大名・朝倉義景の食客に過ぎませんでした。それが義昭と信長をつないだ縁を足がかりとして、長岡家の上司ともいえる〈寄親〉の立場となり、過去とは身分が逆転していました。その光秀が信長の寝首を掻いた時の衝撃は、ふつうの戦国大名とは相当違うだろうと思いましたし、それをこの物語の中に溶け込ませたいと思いました。

和田竜さん