戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簑輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第5回です。(全7回の5回目/前回を読む)
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宮部善浄坊継潤(みやべぜんじょうぼうけいじゅん)は、豊臣秀吉に仕えた勇将だ。
彼は武将であると同時に僧侶でもあり、頭を丸めて法衣を着込んだ、いわゆる法師武者であった。ちなみに、後世の史書では「善祥坊」と書かれることが多いものの、『竹生島奉加帳』に残る本人の署名は「善浄坊」であり、表記としてはこちらが正しいようだ。
譜代の家臣を持たない成り上がりの秀吉にとって、継潤は古参の重臣と言っていい。本記事では、そんな彼と秀吉との出会いについて書いていきたい。
山門出身の武辺者
継潤は、近江(滋賀県)の豪族・土肥氏の八男と伝わる。彼は同国の湯次(ゆすぎ)神社の社僧・宮部清潤(せいじゅん)の養子となり、やがて比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に上って僧侶の修行に励んだ。
『真書太閤記』によれば、継潤は僧侶でありながら武芸を好み、兵書の研究にいそしんだというが、後年の武将としての活躍を考えれば、いかにもありそうな話だ。叡山時代の彼についての史料は少ないが、よほど武張った荒法師であったのだろう。
やがて継潤は、修行が十分成ったということで、叡山を降りて宮部氏を継いだ。
実は宮部氏は、ただの僧侶ではない。同氏は室町幕府の重鎮・伊勢氏の被官で、下湯次庄における庄司(荘園の管理者)だったとされる。
しかし、「応仁の乱」以降、幕府の権威は失墜し、荘園の多くは、各地の大名・国衆(領主)によって好き勝手に横領されていた。
「わしが同じことをして、なにが悪い」
あるいは継潤は、そう考えたのかもしれない。