秀吉の交渉
『浅井三代記』によれば、秀吉は次のように継潤を説いたという。
「貴殿がこの城で本望を遂げたところで、そんなものは“九牛の一毛”に過ぎませぬぞ」
九牛の一毛とは、「多くの牛の中の一本の毛」のことで、「多数の中の一部、取るに足らないもの」を意味する故事だ。秀吉がこの種の漢語に詳しいとは思えないから、あらかじめ古典に通じた家臣か禅僧にでも尋ねて、用意していた言葉なのかもしれない。
この言葉は、中国初の通史『史記』を編んだ司馬遷(しばせん)が、友人に送った書状に由来する。
司馬遷はかつて、敗将・李陵を弁護したことから帝の怒りを買って投獄され、死刑を免(まぬが)れるために宮刑(去勢刑)を選び、宦官(かんがん)となった。
司馬遷は、書状の中で語る。
「刑に服し、潔(いさぎよ)く死んだところで、世の人々は、節義を通したなどと讃(たた)えてはくれません。所詮、私のような小人の死など、多くの牛の中の、一本の毛を失うようなものです。虫けらが野垂(のた)れ死ぬのと、なんの違いがありましょう」
そのような死よりも、彼は大願である『史記』の完成のため、当時の士大夫にとって死以上の屈辱とされた宮刑を受け入れ、生きることを選んだのだった。
「この小城を死ぬまで守り続けるのが、お主が生涯をかけてやりたいことか? それで、まことに本望なのか?」
秀吉は、継潤にそう言いたかったのではないか。
さらに想像を広げ、小説風に綴(つづ)るのなら、秀吉は次のようなことを言って、こんこんと継潤を説得したかもしれない。
「お主には、この言葉の意味を察するだけの教養がある。己一個の意地と槍働きにしか興味のない、木っ端武者どもとは違うはずだ。そのことを、この秀吉も、そして我が主君・信長様も、十分に理解しておられる」
「それに比べて、浅井長政はどうだ。いまも最前線で、織田方と対峙し続けるお主に、どれほど報いたのだ。これまでの武功に見合うだけの身分に引き上げてくれたり、新たな城や領地を与えてくれたのか。……なにもあるまい。譜代の家臣でもない、山法師崩れのお主を厚遇などしてしまえば、重臣たちの不興を買い、人心を失って孤立しかねないと、長政は恐れているのだろう」
「だが、信長様は違う。あのお方は、左様なことを恐れはせぬ。卑賎に生まれ、草履取りに過ぎなかったこの秀吉が、一手の大将となり、最も重要な城を任されているのがなによりの証よ。……のう、継潤よ。お主は、古典も兵書もろくに知らず、武芸においても己より劣る、愚かな譜代衆の盾として、ろくな褒美もなく使い潰されるのが望みか。そうして九牛の一毛の如く、なにごとも為さず、誰にも知られぬまま、ありふれた木っ端武者として死んでいくのが本望か」
「司馬遷は、節義を通して潔く死ぬよりも、『史記』を編むという大望のため、汚辱にまみれて生きることを選んだぞ。お主はどうするのだ、善浄坊継潤」
実際の秀吉が、どのような言葉を用いて交渉したのか、詳しいことはわからない。しかし、少なくとも、普通なら到底あり得ぬような裏切りを、決断させるに足るものだったのは確かである。