彼は、伊勢氏から管理を任されていた下湯次庄を横領し、宮部城と名付けた城砦を築いて防備を固め、兵を率い、近隣の勢力と領地を奪い合うようになった。いかに乱世とはいえ、仮にも僧籍にある者とは思えない所業だが、以来、継潤は武将としての才能を開花させていった。
『武家事紀』によれば、土地を巡っての合戦の最中、継潤は富永新兵衛という弓の名手と一騎打ちになったが、彼は富永の放った矢を、槍で三度も打ち落としたという。
その武名は、近江国内でよほど鳴り響いていたのだろう。やがて継潤は、北近江を支配する浅井長政(あざいながまさ)に招かれ、仕えることとなった。継潤は持ち前の武勇によって、浅井家中で頭角を現していき、敵対する勢力からは、
――宮部の城主善祥坊は、武勇勝(すぐ)れて、浅井一味の諸将の最も心悪(こころにく)き者(『真書太閤記』)
などと評されたという。
浅井家の盾として
以前のコラムでも紹介したように、浅井長政は信長と敵対し、元亀元年(1570)6月、「姉川の戦い」で織田軍に挑むも、敗れた。
この戦いののち、信長は浅井方の横山城を奪い、城番として木下秀吉(豊臣秀吉)を置いた。横山城は、浅井氏の本拠・小谷(おだに)城から9kmほどしか離れていない。浅井長政としては、喉元に刃を突きつけられた思いがしただろう。
だが、秀吉には目障りな敵がいた。小谷城と横山城の中間に位置する宮部城を守り、盾のように立ちふさがる、宮部継潤である。
元亀2年(1571)10月、秀吉は大胆にも、その継潤に調略をしかけた。――織田方に、寝返れというのである。
継潤にしてみれば、悪い冗談としか思えなかっただろう。なるほど、たしかに信長は、「姉川の戦い」で見事に勝利した。しかし、その後の戦局は、むしろ織田方にとって不利が続いている。
浅井氏は姉川で敗れたとはいえ、十分に余力を残していたし、朝倉氏、石山本願寺、三好三人衆といった諸勢力と連携して信長を包囲し、各地で織田方の拠点を脅かした。
昨年12月、信長は将軍・足利義昭の仲介によって浅井・朝倉方と和睦し、やっとの思いで窮地を脱した。姉川での快勝からたった半年の時点で、信長はそこまで追い詰められていたのだ。
そして、将軍にすがりついて結んだこの和睦も、ほどなくして破れ、信長は再び、四方の敵の防戦に回るはめに陥っていた。
織田方は、明らかに窮していた。そして、継潤にとってもう一つ、無視できないことがあった。先月――9月12日、信長は継潤の古巣である、比叡山延暦寺を焼き討ちし、虐殺を行っているのである。つまり継潤にとっては、信長は仇も同然であり、そんな自分を口説き落として織田方に引き込もうなどとは、正気の沙汰とは思えなかっただろう。