甲斐(山梨県)の武田信玄、越後(新潟県)の上杉謙信といえば、戦国時代を代表する有力大名であり、ライバルだったことで知られている。特に、両者が5度にわたって繰り広げた「川中島の戦い」は、後世、多くの物語の題材にもなってきた。
ところで、信玄と謙信の、代理戦争ともいうべき争いが、北陸地方で行われていたことはあまり知られていない。舞台となったのは越中国(えっちゅうのくに)、現在の富山県である。
神保vs椎名、そして謙信
室町幕府の体制下において、越中は畠山氏の領国の一つであった(本国の河内に加え、紀伊、越中という3ヶ国の守護を兼ねた)が、畠山氏自身は在京し、実際の統治は、在国の守護代によって行われていた。
戦国時代以降、畠山氏の支配が衰えると、越中の覇権は、共に守護代の家柄である神保氏・椎名氏の両家によって争われることになる。
越中中央部の神保長職(ながもと)は、越中や加賀(石川県南部)で大きな影響力を持つ、一向一揆(浄土真宗・本願寺教団の武装勢力)と手を結んだ。一方、東部の椎名康胤(やすたね)は、先代の頃から同盟関係にあった、隣国・越後の大名である長尾氏を後ろ盾とした。
永禄3年(1560)、椎名康胤の救援要請により、長尾氏は越中へと出陣した。軍勢を率いる当主の名は、長尾景虎――のちの上杉謙信である。
越後の軍神、越中へ出兵
――依怙(えこ)によって弓箭(ゆみや)は携えず、ただただ筋目を以って、何方(いずかた)へも合力いたすまでに候(私心によって戦はせず、ただ正しき道理のもと、どこへでも力を貸すまでである)
景虎(以下、便宜上、謙信で統一する)が同年に記した書状(4月28日付 佐竹義昭宛書状)には、そのような一節がある。後世、よく知られるように、彼は大義を重んじる武将で、この書状によれば、このたびの越中出兵も野心のためではなく、あくまでも同盟者の椎名氏を窮地より救うためであるという。